中山道をゆく

中山道を歩いています。景色も人も歴史も電車や車で味わえない、ゆっくリズムが嬉しい。

中山道をゆく 初日 大津市内を歩く①


 逢坂山から161号線を湖にむかって坂をまっすぐ駆け下る。間もなくして札の辻に着く。札の辻は幕府の法令を記した高札が掲げられた場所だ。旅人たちに馬や人足を提供した人馬会所もこのあたりにあった。道は左をとれば北陸へ向かう湖西への道、右にゆくと中山道に分かれる(草津までは東海道と同じ道)。交差点の角に大津市道路元標もある。大津の近代道路網はこの地点から広がっていったということなのだろう。

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大津市道路元標

 現代の中山道東海道といえば国道一号線だ。京大阪と東京を結ぶ大動脈は南の音羽山沿いを走っている。大津から草津までの交通量はハンパない。並ぶようにしてJR琵琶湖線が走る。
 旧街道沿いは京風の町家が多く残っている。深庇、虫籠窓、連子格子、商売しないときは上げておくばったり床几、庇の上の魔除けの瓦人形の鍾馗さまがみられる。

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京風町家がつづく界隈(大津市京町)

 大津と京都洛中は十キロも離れていない。家屋やその建築志向そして技術が京都と文化圏を同じくしていたということなのだろう。

 ただ天皇が住んだ都の形成という面で行くと京都より近江の方が早かった。人の暮らしを包む質と趣を括って文化と呼んで間違っているとは言えないだろう。大化の改新を成し遂げた天智天皇は札の辻からそう遠くない北西の地に大津京を開いた。聖武天皇甲賀の里に近い紫香楽(信楽)に離宮を置き平城京と往復していた。古代から中世にかけて近江から奈良、そして京都のトライアングルで地域文化が醸成されていたといえるだろう。
 その痕跡をトレースすることは時代が古すぎて難しいが、考え方としては、大津の町家に関わる質や趣が洛中の京都から一方通行でもたらされたというのは歴史の変遷全体からすれば偏った見方だ。大津京紫香楽宮など律令時代からくつくつと発酵してきた和の文化が地域全体を覆ってきたのだと思っている。

 

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京風町家 虫籠窓、格子 ばったり床几がある

 吾妻川があった。滋賀県庁を山手に見、町家の風情も途絶えたかに見え、距離を稼ごうとスピードを上げたところに橋柱にそう書かれてあった。橋にそう書かれてなければ気づかない数歩で渡りきれる細い流れだ。古来より「関の小川」で呼ばれ和歌にも詠まれた。逢坂の峠あたりに源を発し市内を曲折しながら琵琶湖に注いでいる。

 音羽山紅葉ちるらし相坂の関の小川に錦をりかく

 金葉和歌集源俊頼は逢坂の峠界隈の錦繍をそう表現した。琵琶湖畔の紅葉は比叡山の麓日吉神社のあたりが美しかった記憶がある。吾妻川のまわりは開発が進んで山麓の上のほうまで住宅が広がっており往時の紅葉を描く手掛かりを得るのは難しい。

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吾妻川 橋柱

 大津での目当ては義仲寺に立ち寄ることだった。私が境内に入った昼下がり、訪れる人はまばらだった。この近辺は粟津ケ原がと呼ばれ琵琶湖に面し近江八景のひとつ「粟津の青嵐」として知られた景勝地であった。粟津(あわず)ということから「逢わず」という掛詞で和歌にも詠まれた。
 朝日将軍木曽義仲の御墓所である。一一八〇年木曽義仲平氏討伐の挙兵をし八三年に北陸路の倶利伽羅峠平維盛の大軍を破って入洛したものの皇位継承政に介入し後白河法皇と不仲になった。源頼朝が放った範頼、義経の軍勢と戦ってこの粟津の地で敗れた。

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木曽義仲の墓


 松尾芭蕉も死んだ後この寺で埋葬されている。芭蕉は度々近江を訪れこの地を題材に数多くの句を詠んだ。一六九四年大阪の今の御堂筋の旅窓で亡くなったが「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺言によって遺骸が運ばれた。
 なぜ義仲寺だったのかはよくわからない。

 

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松尾芭蕉の墓

 盛りをすぎた芭蕉の木が人のげんこつぐらいの大きさの苞(ほう)長く突き出していた。芭蕉はバナナと同種の植物である。松尾芭蕉の名のゆわれは江戸・深川に草庵を結んだとき植えた芭蕉が大きく生長して話題になったからだと言われている。(つづく)