中山道をゆく

中山道を歩いています。景色も人も歴史も電車や車で味わえない、ゆっくリズムが嬉しい。

中山道をゆく 大津市内③

 瀬田の唐橋へは中山道東海道)もいったんJR石山駅までからだ。
 石山と言えば真言宗大本山石山寺がある。その寺名の通り境内に硅灰石の巨岩が覆いかぶさってくるように屹立し、堂宇も岩の上にある。
 山や樹木と同様、岩は古代から自然に対する畏怖の念を呼び起こし、人々は社を建てて祈りを捧げた。磐座信仰の起こりである。

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石山寺の秋月

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境内の巨岩(硅灰石)

 石山寺は磐座をもって真言の祈りの場とした巨刹である。747年に聖武天皇の勅願によって建てられた。紫香楽宮を設けた聖武天皇だ。聖武は僧・良弁に対し東大寺の大仏建立に不足している金が多量に産出されるよう祈れと命じ、良弁は祈願の場をここ石山に定めた。桓武天皇が奈良から京都盆地の山城に都を移して平安京としたころ、空海が司る真言密教が勢力を強め石山も真言の教えの道場となって今に続く。

 瀬田の唐橋に着いたのは昼の12時半ごろだった。京都伏見の家を朝5時半に出て6時間でざっと24キロ歩いたことになる。昼食に30分休息をとったのと、義仲寺で40分ほど滞在したのを差し引きするとざっと時速5キロ弱というスピード。さすがにちょっとくたびれた。昼食に近江牛でも、と思い名店「松喜屋」の前も通ったがはやはり相当値が張りそうで腰が引けた。結局石山駅前のマクドナルドでビッグマックとコーラで済ませた(せっかくの旅なのに貧乏性が出た)。

 

 

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瀬田の唐橋

 

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瀬田川(橋から北、琵琶湖方面を望む)

 瀬田の唐橋が話題になる機会は多くない。毎日放送日本陸上競技連盟が共催する毎年春の琵琶湖毎日マラソンの中継で、黄色の欄干が特長の長い橋を見るくらいだろう。

 橋は川に架かっているというが川はまだ日本一の湖・琵琶湖の南にあって、ちょうど和楽器琵琶の柄のあたりの、一番すぼまった部分にあたる。川はそのまま南下し宇治田原の渓谷を駆け下り、宇治市街に入る手前の宇治川ダムを経て淀川に合流する。
 「瀬田の唐橋を制するは天下を制する」と書いたが古くは壬申の乱承久の乱など幾多の戦乱の舞台となってそのたびに焼け落ちるなどした。本能寺の変のとき、変事を知った安土の織田方は明智軍の到来を予期して橋を落とした。明智の兵は仮橋の架設に3日を要したという。
 昔この橋に大蛇がいて通行人を脅かした。勇猛できく俵藤太は臆することなく蛇を踏みつけて橋を渡った。大蛇は仙人に姿を変え、三上山に棲む大百足が周辺の人々を苦しめている、助けてほしいと懇願した。藤太は湖東にそびえる三上山に赴き自慢の弓矢で大百足の目を射ると大百足はついにたおれた。

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三上山(野洲川から望む)

 これは10世紀の終わりに武家の台頭の先駆として関東を平定した平将門を討った藤原秀郷の話をモデルにしているらしい。秀郷が将門を討つことができたのは放った矢が将門の目を射たからだと言われている。秀郷の弓矢の腕前がいつしか山そのものが御神体となっている三上山の信仰と結びついたというところに近江の伝説の面白さがある。

 俵藤太の話は後談があって、藤太の百足退治が成功すると仙人の招待で瀬田川深くの竜宮で歓待され沢山の米俵を土産にもらって帰ったという逸話だ。豊富にとれるコメのその豊穣な近江という土地柄を伝える昔話である。