中山道をゆく

中山道を歩いています。景色も人も歴史も電車や車で味わえない、ゆっくリズムが嬉しい。

中山道をゆく④ 大津から草津へ

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中山道東海道の分岐点に立つ道標

 草津

 瀬田の唐橋を渡るとまもなくして三叉路の前に建部大社の大鳥居が見えてきた。神社にも序列がある。このお社は近江国では筆頭格の近江国一宮に列せられている。京都でいえば平安京以前に創建されたユネスコ文化遺産の上賀茂・下鴨神社と格では同じだ。

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左へゆくと建部大社

 日本各地を転戦したと伝わる日本武尊を祭神とし、起源は古事記日本書紀の神話時代に遡る。ここに社が置かれたのは675年で、近江国府の所在地であった瀬田の地に天武天皇が配祀したのが始まりだという。
 天武天皇はその3年前に起こった壬申の乱の勝者だ。天智天皇崩御した672年、天皇の弟・大海人皇子は挙兵し天皇の息子・大友皇子に挑んだ。クーデターである。

 乱の戦場は関ケ原まで及ぶなど各地で激戦が続き673年、瀬田で大友皇子軍が大敗し決着した。確か大友皇子の父・天智天皇中大兄皇子として奈良にあったとき、中臣鎌足と結託して当時政治を実効支配していた蘇我入鹿を襲って天皇親政の土台を築こうとした。その乙巳(いっし)の変と呼ばれた大化改新もクーデターであった。親がクーデターで奪った権力をその息子もクーデターによって奪われたのだ。天武天皇が建部大社を建立した意図は? 自己の勝利を勝ち取った場所で印象づけ、世が変わることを宣言する狙いがあったのではないかと想像している。

 

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民家の間をひたすら行く

 瀬田の唐橋からひたすら歩いた。初日は最低でも草津、できれば守山の宿まで行きたかった。
 何も決まりごとのある旅ではない。気ままに、ただ、どの宿場からからどこまでだけを軽く決め、ザックを背負いカメラ片手の旅を続ける、そうしようと思っている。

 でも今日は初日だ。ここでへこたれてしまうと、後々、距離が伸びないかも知れないし、もとより意志薄弱の私だ、途中で投げ出してしまうかもしれない。だから歩けるだけ歩いてやれという気負いがあった。ものの本を読むと「京立ち守山泊まり」といわれ、東下り中山道をゆく旅人は、京都三条を立って守山までの35キロほどを歩くのが江戸時代、庶民の旅としては一般的だったらしい。それならと、自分も守山にこだわっていた。

さて歩かねばならない。
 道は生活道路の間をうねうねと続く。JR瀬田駅に近い龍谷大学瀬田キャンパスに続く学園通り沿いに一里塚跡碑を見つけた。お恥ずかしながら一里塚と名のついた石碑を見るのは初めてである。江戸時代に入って宿場や人足馬借の制がしかれ人の往来や物資流通に里程の明示が必要となった。そのため、目印にと一里(約4キロ)ごとに塚が築かれ崩れないよう榎など丈夫な木が植えられた。

 

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里山の一里塚跡碑

 歩いてみてわかったことだが、中山道沿いには一里塚がその規模を縮小しながらも姿を残しているものや、もとあった場所にその跡碑が設けられている場所などがふんだんに残っている。
 長く歩いて一里塚碑などを見つけると4キロ歩いたのだと旅情がわく。草津宿手前の野路にも一里塚碑が残っていた。この野路町に1994年開業の「JR南草津駅」がある。この駅の誕生まで20年近くかかっている。1970年代の終わりごろから地元経済界の中で起こった草津駅と瀬田駅の間に新駅を設ける構想が、1980年代半ばの草津市南部新都心構想とドッキングし、1990年の立命館大学のキャンパス移転の具体化と相まって進展、開業した。「野路駅」も駅名候補に上がっていたが最終的に「南草津駅」に決まった。

 南草津駅の開業と前後するように草津市の都市化が一挙に進んだ。滋賀県で一番進んでいる地域ではないだろうか。大学のキャンパスが開かれ一人暮らしする学生が増えた。周辺には大手企業が工場や研究所を開き敷地を広げの納品や出荷の大型トラックの出入りも頻繁だ。JR新快速電車が京都大阪までの通勤の利便性を高めファミリー層の人口が激増した。

 こうした産業経済の地域的発展は草津という土地がもとから流通の要衝だったということと無関係ではあるまい。

 草津は日本の国土の中で唯一の中山道東海道の分岐点である。江戸表と国もとを往復する参勤交代でもっとも混み合う場所であったろうし、人馬が運んできた荷駄の分量も大きなものであっただろう。土地がその歴史の中で醸成してきたポテンシャルが高まり今の栄え方があるのだと思う。

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瓢泉堂前の道標

 中山道東海道)と矢橋街道との分岐点のあたりに瓢泉堂という瓢箪屋がある。矢橋街道は琵琶湖畔の矢橋にひらいた湊につながる街道である。瓢泉堂の付近にはむかし6、7軒の瓢箪を売る店があったが今はこの店一軒きりになった。店の軒先をかすめるように享保15年(1730)10月の建立とある高さ1.5メートルほどの道標が立っている。「右やばせ道 ここより廿五丁 大津へ舟わたし」と刻まれている。
 有名な室町時代連歌師・宗長の歌「もののふの矢橋の舟は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」に出てくる矢橋の湊である。ここと大津の石場あたりにあった大津湊の間を舟が結んでいた。比叡や比良からの突風に難破する舟も少なくなかった。安全にゆくのなら遠回りでも瀬田の唐橋を渡ったほうが無難だという「急がば回れ」の語源ともなった。

 ようやく草津宿に入った。15時前である。往時は本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70余軒の大きな宿場町であった。さすがに東海道中山道が交わっていた町である。

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太田酒造

 戦国初期の武将で江戸城を築いた太田道灌にゆかりある太田酒蔵に立ち寄って吟醸酒を一本買い求めた。本陣はその酒蔵の斜め向かいにある。数多いかつての宿場町の中で往時の姿を完全な形でとどめている本陣は少ない。大福帳(宿帳)には最後の将軍徳川慶喜十四代将軍徳川家茂に嫁いだ皇女和宮や浅野匠頭、吉良上野介新選組などといった人物の名前も数多く見られ、宿で休憩し、または宿泊し、そしてまた街道を往還した当時、名のない庶民が玄関で草鞋の紐を解く姿まで見えてきそうな証拠である。

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中山道東海道の分岐点 右:東海道 左:中山道(トンネルくぐる)

 草津追分は本陣からすぐそこである。草津川の下をくぐるトンネルの手前に立派な石造の道標があり、日野の豪商だった中井家が寄進したものといわれ「右東海道いせみち、左中仙道美のぢ」と刻まれている。追分、まさしくここが二つの二大幹線道が交わっていた地点であり、高札場が置かれた草津宿東の出入り口であった。

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道標

 道標の上に木製の火袋が乗っている。あそこに灯が入っていた時代があったのだ。それはいつまで火が灯されていたのだろう。菜種油だったがロウソクだったかわからないが、今私たちが見ている灯火に比べれば遥かに乏しい明かりが街道を照らしていた。日中は人や荷駄でごったがえしていたであろう。夜は人が寝静まってしまうと障子から漏れ落ちる僅かな行灯の明かりとこの常夜灯の頼りない明かりが、昔は人々を勇気づけたり安心させたりする灯だったのだ。