中山道をゆく

中山道を歩いています。景色も人も歴史も電車や車で味わえない、ゆっくリズムが嬉しい。

中山道を歩く 妻籠へ 旅はくりきんとん 旅は水(20200921ー④)

 

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妻籠宿 西の入り口

【1】一路妻籠へ 険路の街道

 馬籠と妻籠は互いに隣村だが、聞くからに親しいニュアンスが含まれている。兄弟姉妹か、親戚筋かという宿場名の韻、籠(人家が集まった集落の意)を共有している。本陣の宿の主は双方とも島崎家ときている。近親であることに違和感はない。

 こうした背景説明はそれとして、僕は、二つの宿場がニコイチに見えていた。距離的に。二里(8キロ弱)の距離はひとっとびぐらいの時間じゃないのかと。ランニングすれば1時間かからない距離だ。10キロ未満の旅は旅でないがごとくである。あまりにも想像力がなさすぎてこの峻険な山間の往還にいかばかりの労苦が待ち受けているかなど考えも及ばなかったのだ。

歩いてみてわかった。「夜明け前」の青山半蔵やその父吉左衛門らは繁く両宿を往復する。朝出て夕方に帰ってくるような描写もありどんな道だろうと歩いてみたらとんでもない険路だった。馬籠峠の標高801メートルを真ん中として馬籠が600メートル、妻籠は430メートルだ。馬籠峠〜妻籠の標高差はざっと400メートルもある。ちょっとした山歩きである。いや正真正銘の山歩きである。ハイキングコースと旅行本に紹介されているが、なめてかからないほうがいい。ハイキングとしてみれば2時間から3時間の歩行。ただこれは僕たちがトレッキングシューズやなど装備が格段に進歩し道も舗装路あり地域の方々に点検整備された登山道(旧街道)という条件が揃ったうえでの時間である。命を落とす危険がまったくないわけではないが江戸時代はそういうわけにはいかない。僕が歩いている木曽路は2020年初秋の木曽路である。

 

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道中の檜林

 【2】街道は秋 (捻挫に注意)

 僕は一石栃立場茶屋(いっこくとちたてばちゃや)を辞して出発した。山道が続く。木洩れ日が暗い地面に白い輪を散りばめている。汗はさほどでもない。そこは南木曽の山中である。青々としたいがぐりがころがっていたりしている。とげに注意して開いた“いが”の中に指を差し入れてみる。内側の白い部分がまだ湿っている。落ちたばかりなのだ。秋がはっきりと始まっている。

 坂のアップダウンが続く。スニーカーで来ていたことを少し後悔している。坂道でのグリップが弱いのだ。家に置いてきたハイカットのザンバランの登山靴を思ったが、重い山靴で木曽路50キロの旅は少々つらい。しかしスニーカーはやっぱりスニーカーだ。下り斜面で両脚をつっぱるとソールが柔らかいため足首が悲鳴を上げる。こんなところで捻挫などしたら笑いものだ。

 子供のはしゃぐ声がする、その家族連れを追い抜く。妻籠方面から上って来たハイカーらはやはり息を切らしている。汗もだらだらだ。妻籠からは標高差400メートルの登り一辺倒。馬籠方面からはほとんど下りなので楽だ。「夜明け前」の登場人物らもそうだが、昔の人は一日に30キロとかそれ以上を歩いた。物資の運搬、買い出し、関所との連絡、商売の関係、知人宅への訪問・・・毎日の生計のために長い距離を歩くのが当たり前だった。そのことが驚異的に思えてくる。

 窪地に出た。田圃があった。農家の男性が小型のコンバインを操っていた。空は濃青で高い。稲穂が黄色くまた重々しくたれている。機械がひと唸りし音が鳴り屑が宙に舞う。パイプから籾が吐き出され大きな袋に落ちていく。

 近くに名勝「男滝・女滝」とガイドブックにあったが、そこはやりすごし暗い檜林の道を急ぐ。

 

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収穫

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牛頭観音さま

【3】牛頭観音さま

 前が明るくなった。先はすとんと切れ落ちている。集落らしい人家が谷底に見えた。妻籠宿の西の外れ大妻籠(奥妻籠が訛ったものらしい)のようだ。県道七号線のアスファルト道も街道に絡むように走っている。この見晴らしのいい場所は「下り谷」というらしい。

 斜度がさらに厳しくなっていた。道の脇に野ざらしになった石の観音様があった。「牛頭観音」の駒札がある。

 馬の頭を観音様に乗せて彫った馬頭観音はこの街道沿いに珍しくないが牛頭は珍しい。中山道に唯一のものであるらしい。馬頭観音様は道中、落命した馬を悼んで街道をゆく人や馬の無事を願って祀った。こっちはこの急斜面で命を落とした牛を祀ったものだと駒札は紹介している。木曽路はすべて山の中。荷物の運搬に使役された牛馬にとっても並大抵の山道でなはなかったということだ。帽子をとり一礼し、またあるき出す。

 

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妻籠の卯建のある佇まい

【4】大妻籠 卯建の集落

 大妻籠の集落に入る。旅籠の看板が上がっている。古い民家が一列に並ぶ。ひときわ大きいのが目についた。「つたむらや」という旅館だった。二階が道側に張り出した豪壮な木造建築物だ。出梁造りというのだった。軒板の下に梁が突き出して二階を支えている。構えを大きくし立派に見せる建築方法だった。壁に薪が積み上げられ刈り取りを終えたばかりの稲穂が架干しされている。人家は全部で六、七軒もあるだろうか。どの家も卯建が立派だ。

 卯建の上がらないという言い伝えがある。低い身分だ、稼ぎが悪い、という意を含んでいるが、この木曽の集落で卯建は実質的な防火手段である。家屋の妻側の壁を軒先まで伸ばして類焼を防ぐ真の防火設備であった。

 各地の宿場は昔、大火の悲哀を被ってきた。一度火が出ると長屋式に立ち並ぶ集落はひとたまりもない。馬籠も明治、大正と焼けた。卯建は防火の証だ。

 

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妻籠 寺下の町並み


【5】妻籠

 妻籠の宿に入った。12時30分。水音がする。川音ではない。山から引いた水が檜らしい大木をくり抜いた水槽に音を立てていたのだった。街道の左側を木曽の山々に発する蘭川(あららぎがわ)の瀬が淡く光っている。細い道が枡形に折れ曲がり家並みを遮っている。

 出梁造りの民家が並ぶ。中を開け放ち白白と障子が眩しい。店先に藍暖簾に妻籠と白く染め抜かれたのがわずかな風に揺れている。古そうな集落だ。古く見せているのではない。作り物ではない本物の古さである。集落全体が乾いた栗の実のような色に落ち着き、振り返って仰ぎ見た山の緑に溶け込んでいる。上嵯峨屋のような江戸期の木賃宿(自炊専用の安宿)も残っている。

 

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妻籠 枡形周辺

【6】宿場の継承とは 

 宿場や古民家の継承は簡単なことではない。

 僕は京都に住んでいる。町のあちこちに紅殻格子に厨子二階で虫籠窓の江戸期、明治期の京町家が数多く残っているが次々と姿を消して行っている。維持には手間もお金もかかる。行政の町家保存のテコ入れも十分ではないので、高齢化した住人は壊してツーバイフォーの便利な家に建て替えるか、売り払って他へ移ったりしている。そのことを思うとこの集落が百年いやそれ以上の歴史を経た町並みをまるごと保存しているのは、これも奇跡的だと思うのである。

 戦後の経済復興が進み妻籠は過疎化が進んだ。一九七〇年台に妻籠は町並み保存運動に乗り出し、一九七六年には国から重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた。この田舎で古民家を維持し生き抜いていくことは並のことではない。生計を立て暮らす。生業を持たなければ行きていけない。商売をし(観光客誘致)で事業資金や生活資金を得、行政の力を借りながらこの町並みを生かす。歴史遺産というものはただで手に入るものではないとうことが思い知れるのである。地域の人のがんばりが残したわが国の歴史遺産だと思うのだ。

 残念なことだが馬籠にはそれがない。明治、大正の火災で集落の大半が焼けてしまい今ある建物のほとんどはのちに再建されたものばかりであるからだ。対象的に妻籠は運良く焼けなかった。だからこそ本物の古さがあそこにある。

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当時の建築を忍ばせる土壁(下嵯峨屋)


【7】くりきんとん 旅は情け 旅は水

 ちょうど昼時分だし昼食にしようと思って店はないかきょろきょろしていた。「くりきんとん」と紙が下がっていた店があり、女の店員さんが二人、にこにこしているので思わず中に入ってしまった。木曽路の名物「くりきんとん」。「澤田屋」と暖簾にあった。たくさんは荷物になるので困るなあとショーケースを見ていたら「ひとつからでも大丈夫ですよ」と丸顔の一人が声をかけてくれたのでひとつだけ所望した。金を払ってどこで食おうかと探していたら「軒下のベンチをお使いくださいね」と勧めてくれた。

 「どちらからおいでですか」「京都からです」僕は中山道をボチボチ歩いていることを説明した。「またそれはようこそ妻籠まで。ゆっくり食べてくださいね」

 紙包を開け齧りついた。ほんのり薄い緑の、さっくりした口溶け感。淡い甘味が広がる。

街道の西の外れにある、さっき自分が下りてきた峠のある山を見上げ、吹き下ろす風に心地よいものを感じ、ひとときの旅の風情を身体で受けていた。

 木曽路のお菓子を水で飲み下してしまうと空腹感が増して来た。もう一個食べるか、一個ではきかないだろう。もう一個二個くれと言うのもこっ恥ずかしい。ともかく、軒下を借りたお礼を言おうと店の前に立って、「美味しかったです。ありがとうございました」と頭を下げると「京都の人に美味しいと言っていただいてよかったです」と反対に礼をいわれて恐縮してしまった。

 店員さんは私のザックのサイドポケットに挿して合った水筒に目を向け「注ぎ足しておきましょうか」と丸顔に笑顔を浮かべている。「いいんですか」「どうぞどうぞ」と僕の「プラティパス」の水筒に井戸水を入れて戻って来てくれた。「旅の無事を祈ってますよ」と励ましの声までいただいて、恐縮しきって二度三度頭を下げ僕は店を後にした。この水があとで効いてくる。

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軒の飾り

 空腹もぎりぎりなんとか我慢できそうだった。それも朝、名古屋駅きしめんと天むすをたらふく食べた根拠のない自信からだった。ええい。步こう。歩いてコンビニでも探そう。歩きながらスマホの地図アプリをいじる。だが画面には食い物屋はあるはずもなくコンビニもどこにもなかった。中山道はコンビニと無縁の街道だった。(続く)