木曽路の中心地 木曽福島宿 うまい蕎麦を食べて嬉しい旅路(20201025)
木曽福島には8時29分についた。宮ノ越、藪原、難所鳥居峠を越えて奈良井までの三つの宿たどって歩く。途中、宮ノ越宿の手前で中山道中間点も通る25キロの路程。7時間あれば踏破できるだろう。奈良井には16時着を見込んで駅を降りた。
歩行スピードを上げて通過する宿場の数を積み上げるか、宿場の佇まいを味わい文物を渉猟しながらゆっくり歩くかのどちらかだが、前回野尻から木曽福島まで、とにかく30キロを歩くことにこだわりすぎて道筋の史跡をたくさん見落としてしまった。何時までにどこそこに着く、などと距離と時間の計算ばかりして、肝心の木曽路のあれこれに気づかず通りすぎてしまったことが多かった。
その反省にたって、今日は宿場宿場でゆっくり時間を取ることにした。
【2】福島宿
駅前はまだ閑散としていた。すでに営業を始めていた観光案内所で馬籠から贄川までの木曽路十一宿の地図をいただいた。
木曽福島。谷底の集落。木曽氏の流れを汲む山村家が明治維新まで治めていた木曽路の中心地であった。木曽氏は平安末期に断絶した源義仲の嫡流に関係する一族とされているが本当のところはわかっていない。
木曽川は細く泡立っていた。行人橋から眺めると左右の懸崖に住宅や商店の裏側が並ぶ。生活の工夫に溢れた崖家造りの家並だ。ぱっと見たところ、どこか山村の温泉街のような佇まいにも見える。300年の歴史をもつ蕎麦屋「くるまや」や木曽漆塗り発祥地だとかいう「よし彦」が向かい合って看板を上げている。さすが街道の中心だけあって飲食や生活雑貨の店にも長い歴史を持つものがあるということだ。木曽路の銘酒「七笑」の蔵元があるのもこの町だ。
本陣は明治の初めの火災で消失、一時町役場が立てられたが今は木曽町文化交流センターになっている。広い敷地だ。本陣の構えも並のものではなかったのだろう。
宿場は昭和2年(1927)の大火で大半が焼け落ちた。わずかに江戸時代を思わせる風情が上の段の通りに軒の卯建や千本格子、なまこ壁として残っている。
徳川家の直轄領だった木曽谷を治めた代官所、人の通行や荷駄の流通を取り締まった関所の跡など街道筋の息遣いが伝わる、宿場町の典型のような集落だった。
代官所や関所の跡を見たのは初めてだ。代官といえば水戸黄門で登場する悪代官。御老公一行が悪行を働く彼らを懲らしめる全国行脚は絵空事であるが、こうして木曽路の奥地まで脚を伸ばし代官屋敷の跡を目の当たりにすると、記述や著作にとどまっていた江戸期の歴史が私の中で突如として輪郭をもって立ち上がった。代官さまは実在し、地方を統治し関所を守る町長村長として機能していたのだ。
木曽の代官山村家は福島関所の番も司った江戸末期まで続いた家柄だ。不遇のうちに死んだ木曽義仲の末裔の庇護を受け、関ケ原の戦いでは徳川家忠の軍を先導して功を挙げ、一帯を任された。尾張徳川家の元でこの地をよく治めた。
木曽福島にはその木曽義仲の生きた跡もある。征夷大将軍に任ぜられながらも朝廷の裏切りによって、遠く近江国大津で命を落とした義仲は興禅寺の裏山に分霊され眠っている。武田信玄の娘で木曽家に嫁いだ真理姫の霊も大通寺に祀られている。
中山道の交通の要衝として、また権力の分水嶺として、人と人の思いの衝突と離反を垣間見てきた宿場町はまさに歴史の宝庫だった。そんな風に各史跡を伝いながら歩いているとあっというまに三時間が過ぎていた。11時半である。木曽路最大の難所鳥居峠を越えられるか。ここから7時間はかかる。16時を回ってしまう。日没が気にかかる。微妙なところだ。
【3】老舗「くるまや」で新蕎麦を食す
風が強い。冬を思わせる固い芯のある風が落ち葉を巻き上げて通り過ぎる。
急がなければならない。関所入り口を模した冠木門を出る。12時前である。腹は空いているがどうしたものかとスマホで検索すると近くに蕎麦屋とある。どうかと思って近づくと、木曽川の行人橋のたもとに店を出していた「くるまや」ではないか。
駐車場は各地からの車やツーリングのバイクで満車状態。中に入る。なんとか座れそうだ。ざるそば二枚注文する。神棚の下に「新そば打ちはじめました」と張り紙がしてある。かき揚げ丼や天ぷらそばも気になるが、ここは蕎麦だけを食べてみる。
出てきた。木曽名物と赤枠のざるに、つやつやとしたもりそばが積まれている。しろねぎと大根おろしの薬味でいただく。濃いめの汁に浸して啜る。うまい。新蕎麦の、軽やかな癖のない風味。コクのある汁に大根おろしがぴりっとアクセントを付けている。
音を立ててどんどん啜り、舌を鳴らし唸る。時間を惜しむ如く一枚目を平らげ二枚目を味わう。ふわっと鼻腔をくすぐる野趣な匂い。蕎麦は野生な風味のコントロールの妙味である。その真髄をみたような思いだ。食べるほどにつるつると喉をおちてゆく。
たしか島崎藤村の「夜明け前」の一節に、主人公半蔵の次男を養子に出す馳走に新蕎麦をゆがいて大根おろしで食べた云々というのを思い出した。
ご飯を漬物だけで注文しおいた。白飯もうまく炊けている。漬物もうまい。
馬籠から木曽福島までを歩いた前回の徒路は美味しいものにありつけなかったが、今回はどうだ。一発で絶品にありつけた。うまいものを食うと嬉しくなる。旅路の幸先がいい。さあ鳥居棘が越えられるかどうか。
上松から木曽福島へ またも助けらた木曽路(20200922-②)
【1】上松から木曽福島へ(今ツアー最後の旅程)
島崎藤村の「夜明け前」では主人公青山半蔵をはじめ宿場の人々は馬籠と代官所のある木曽福島を頻繁に行き来している。ざっと片道50キロ。須原泊との記述も度々みられる。一泊二日の旅だったというわけだ。いまその歩行路をたどっている。道筋はほとんどが舗装路であり、国道19号線の左右の山や谷に残る木曽路の断片をたどっている。
10時半過ぎに倉本の集落を出た。街道筋には馬頭観音さまやお地蔵様のほかお墓も国道の方を向いている。谷間に開いた墓地だったところを国道が貫いたのだろう。
国道から逸れると木の吊橋に出た。諸原橋という。よく揺れる。昭和三十一年七月竣工とあった。対岸の諸原のわずかな家並みの集落を結んでいる。眼下を木曽川が音を立てている。山から削り落とされた白い岩石が蝟集し特異な色を放っている。
立町の交差点に出た。桶に水が勢いよく注がれている。水流が透明な輝きを放ち美しい。界隈は須原の水舟の流れを汲み山の水とともに人々は生きている。
街道は国道を渡りつ戻りつする。山道と谷筋の道が交互に現れる。山手に入る。坂を登る。くるみ坂と名がついている。宮戸の集落に入る。明治二十三年と刻まれた馬頭観音様の石碑が土手にちょんと乗せられている。手を合わせ旅の無事を祈る。
【2】上松へ(大相撲御嶽海の里)
沢を渡ると荻原の集落だ。細い下りの道が初秋の昼前の日差しを浴びて穏やかに伸びている。国道に戻る。やがて小野の滝が見えた。ここから道はまた山に入る。坂を登りきると橋が架かっていた。川が山間に音を響かせていた。滑川といい橋も滑川橋という。コンクリートの親柱に「国道十九號線」とある。今の国道は木曽川に沿っている。そのことからすると、以前国道は山中に敷かれた中山道の上を走り宿間を結んでいたのであろう。
新しい石畳の坂を登りきり林間をゆくと上松の宿だった。寝覚めの床の案内板が見えた。目の前に丸形郵便ポストが現れ古い二階建ての建物が二つ並んでいた。南側は蕎麦屋「越前屋」。島崎藤村や十返舎一九、松尾芭蕉も立ち寄ったとかいう。創業は寛永元年(1624)だ。北側のは立場茶屋「たせや」。たしか馬籠峠を妻籠側におりた一石栃立場茶屋にいた案内の男性が言っていた茶屋だ。「木曽路には休憩用の立場茶屋が数多くあったが、大名が利用できる上段の間がついた豪壮な建物はほとんど残っていない」と言っていた。数少ない例としてこの「たせや」を紹介してくれていた。出梁造りのそれは軒の深さ屋根の高さもなるほどの大きさだった。
二つの家屋の間を谷へ下りると景勝地の寝覚めの床である。特に立ち寄らない。見帰の集落から南の方を振り返る。寝覚めの集落と刈取りを終わった田とそれを待つ稲穂の黃が美しい。
上松の小学校前を行き坂を下る。大相撲の御嶽海祝優勝などの張り紙が見える。上松の出身なのだ。
途中で名古屋からの夫婦連れと言葉を交わした。中山道をすでに踏破したとおっしゃって笑みをこぼした。寺坂を下りJR上松駅12時20分着。駅前だがコンビニや食堂らしいものはない。中津川で買っておいたおにぎりを二つ食べて昼食を済ます。
ここから木曽福島まで国道沿いのようだ。十王橋の交差点を直進し笹川の信号まで来る。JRの高架をくぐるのに歩道がないのにビビりながら歩き、そのまま川沿いに出た。国道19号線は架橋され木曽川を渡っている。しかしまっすぐ行くとトンネルに入る。中はどうも歩道はついてなさそうだ。ガイドブックは川筋を右に折れ一路北上しているいるばかり。指図はない。どうすりゃいいんだ、と橋の上をどこか標識に見落としはないか探しもって、来た道を後戻りしていると、白の計四輪車が私の脇で急停車した。後続の車からクラクションが鳴った。
「道わかりますか?」と中年の男性が窓を開けた。
え? ほんとですか?
「木曽福島へいきたいんですが、わからなくなって」
また助けられた。
何度目だろう。
「それならあそこから下ってください」と橋の袂の方を指差した。「案内が出ていますから」
ありがとうございます、と僕は頭を下げた。いいえ、と言いおいて男性は車を出した。
スピードが出ている国道で車を急停車させ、行きずりの者に道を教えてくれるなんて……。そんなことってあるだろうか。喜びが湧いてきた。
教えられた通り橋の袂までゆくと階段を下りて木曽川沿いに出られることがわかった。
【4】いよいよゴール。だがもうヘロヘロ
ここからは一直線である。残り4キロほど。1時間かそこらの辛抱だ。
川の上に道が白く伸びている。1キロかそれ以上か。白い単調な長さにげんなり。こんな景色を見たら誰でも嫌になる。道を教えられた感動もどこへやら。ともかく歩くぱらぱらと民家が見え、そこの犬にしつこく吠えられた。
木曽の桟を越す。かつての難所もどこか遠い世界だ。沓掛の馬頭観音様のところでJRのガードをくぐるようにと、案内板は出ていたが、わかりづらく国道に戻った。
やがて道の駅が見えた。休憩する。二八蕎麦を食べた。木曽に来てまだ一度も蕎麦を食っていなかった。御岳がよく見える場所ということだったが生憎の曇り空で頂きらしいのが霞んで見えただけだった。
元橋まで来る。川を渡って直進すると御岳への道だ。そっちへ道は取らず国道19号線をゆく。林間を抜けると川面が白く泡立つダムが見えた。塩渕の集落に入った。一里塚がある。塩渕の地名は塩を運ぶ馬が川に落ちたからとか、川の湾曲部を「塩」と呼ぶだとか地名の由来には諸説ある。木曽町役場前を行くとJR木曽福島駅だった。15時50分着。
中山道を歩く 痛恨のコースアウト! しかし心解きほぐされる……野尻宿から倉本集落(20200922ー①)
【1】二日目へ
30キロ歩くには20キロ歩く人以上のスタミナがいる。
昨日馬籠から三留野までの10キロそこそこでへたばり、野尻まで入れた全21キロが疲労困憊だった流れからすると、今日の行程30キロはボロボロになるかも知れないと覚悟して望んだ二日目。
野尻からスタートし須原、上松、木曽福島の29キロを行く。
中津川駅前のホテル「プラザ栄」に部屋を取っていた。コロナの影響かなんだかわからないが夜の駅前は閑散としていた。本場香港料理だとかいう店でシュウマイとよだれ蒸し鶏(本格も本格、辛かった)を食べた。部屋に戻ってシャワーを浴びて布団に潜り込むとあっという間に眠りに落ちていた。狭いシングルの部屋で4時に起き、前日の記録をパソコンに書いたあと、6時40分の松本行鈍行に乗った。手帳に残したメモをまとめてエッセイ風に記録を残していくつもりだ。書きなぐりのメモや断片を文章に起こす手間と時間が惜しいのでパソコンを背負って歩いている。
【2】野尻宿から(あの缶ビールをいただいた花屋さんに黙礼)
7時12分野尻着。リスタート。
昨日ビールをいただいた駅前のお花屋さんは7時半にもなっていないのにもう開いていた。鉢やラックが表に出ていた。「これもって行って」とアサヒスーパードライの缶を僕の手に握らせた女将さんの笑顔が浮かんだ。黙礼し道を進んむ。
野尻の宿場は、これがある、あれがあるというような町ではない。どこか眠たげな家が道筋の両側に並んでいる。街道はうねうねと曲がりくねりながらどっしりした山々の聳立する谷間の奥へと伸びている。七曲りだとかいうのだそうだ。
ねこが一匹、道の真ん中であくびしていた。きょとんとしたように僕を見ている。「あんた誰?」と言いたげだ。「京都からきたんだけど、そこ通っていいかい?」と僕はつぶやいた。ねこの答えを待っていると家から人が出てきて「邪魔しちゃいけないよ」とか言った。ご主人の男性だ。笑っている。気さくな人だ。男性が車のドアを開けるとねこは急いで中に駆け込んだ。ご主人さまの出発を待っていたのか。気張らない佇まい、柔和な表情。ねこも人も情に深く、心も和やかで落ち着いていて、そこにいるだけで心が解きほぐされてくる。
野尻の町は馬籠や妻籠よりずっと大きな宿場町だったくせに、今や道の両側に古ぼけた町並みを残すだけだった。北へ伸びる街道筋は右に木曽の巨大な山脈が立ちふさがり左は木曽川がごうごうと迫っている。七曲りの街道筋は山の手前で左にカーブしながら下っている。倉坂(くらんざか)とかいうらしい。宿場の外れまで来た。目の前に山塊が黒ぐろと迫っていた。
【3】歩きながら考えたこと(どうでもよいことを考えていた)
野尻宿を外れると、再び面白くもない国道19号線に出る。ひっきりなしにトラックやダンプ、乗用車、外車、スポーツカーの類が猛スピードで行き交う。不用意に車道にたら轢き殺されかねない。木曽川に目をやると発電所が見えた(大桑発電所。福沢諭吉の婿養子で大同電力社長・福沢桃介が建設した)。
中山道はその道を辿る道標が整備されている。しかしそれは木曽路という街道筋が川の護岸工事や鉄道や国道の整備改良であちこちで寸断されてしまったせいで、形を留めている箇所が少ないということの裏返しである。標識なり案内板なり道標がなければ車の騒音を聞きながら国道を歩くだけになってしまう。
近年の一里塚ならぬ案内板は太太と矢印などが描かれている。それを頼りに道を踏むのだが、ときに思わぬところで矢印を出したりしているもんだから、ぼさっと歩いているとコースアウトする。
【4】調子が出ない・・・痛恨のコースアウト
国道を歩いている。トラックやバンが風を巻き上げ地を鳴らし往来する。どうも調子がでない。ザックの肩紐が食い込む感じがする。荷物が重い。調子のよいとき身体は靴音も心臓の音も呼吸もばらばらのようでいて一定の調和をたもっているように感じるのだが、どうもイマイチだ。歩きと心のバランスがずれている。苦しい。
苦しいということを感知したり考えたりするからしんどいのであって気を逸らしてみることも手だ。みるとガードレールに距離表示が出ている。119K3などと示されている。どうやら名古屋からの距離を表示していて、この場合119キロ300メートルということだ。100メートル置きに立っている。数えながら歩く。時計から時速を割り出し悪くない悪くないと言い聞かせながら道を踏んだ。
100を20回刻んだところだ。えらいことに気がついた。道が違うのではないか。ガイドブックによるとコースは、一旦山の中に入り小ピークを迂回するような設定になっていた。大きな迂回路だったので出発前に意識していたのだが、距離表示ばかりに気を取られ案内板を見落としてしまったのだ。
本来の道筋は、JR大桑駅のところで山手に入り伊奈川に出るのが「正式」ルートなのだが、国道近くを破線で記されている江戸時代初期のものだという道、それすらも逸脱してしまっていた。呑気に現代の自動車道路を歩いてしまっていたのだ。
ここらあたりの道筋は木曽川の氾濫のたびに損傷し、踏むべき街道は変更に変更を重ね山中を通る形となった。大正年度に発生した水害記念碑なども山中に残されており、この木曽路を歩く厳しさを物語っている。
【5】標識の向きの問題
持っているガイドブックは「ちゃんと歩ける 中山道六十九次」(山と渓谷社)。「ちゃんと…」とはとぼけたネーミングだがかなり詳しい。京都の丸善で探した中で一番ハンディーで安かったのがこれだ。現場の標識と地形に忠実でよくできている。
が問題は、現場の道標や表示版の向きが、東京から来る人に目に付きやすいようになっていることだ。丸太を立て面を削って「中山道はこちら」てな感じで矢印を描いている。その面が東京から京都へ「上洛」する人の目に付きやすい向きになっている。東向きなのだ。西国から東京に「出府」する人は、表示板の背中を見る形となり見落としやすい設計になっている。
【6】須原宿へ
標識に憤っても詮無いことだ。
気を取り直し水を飲んでトラックやバンが疾駆する国道を走って渡りJRの背の低いガードを潜って坂を上った。目の前に山裾が迫っている。木曽山脈の最下部の山裾だ。その山裾に沿って道がついていた。そのまま歩く。寺が見えてきた。
山門の前に、中がくりぬかれた丸太が置かれ、水がごぼごぼと竹筒から吐き出され落ちている。柄杓もある。丸木舟を模したようなものだ。水が滔々と落ち鮮やかに朝日を跳ね返している。これをこの土地では「水舟」と呼んでいる。
須原宿に入っていた。
寺は常勝寺という。見上げると青々とした木々が覆いかぶさる長い石段の先に古色な山門があった。永享2年(1430)創建の木曽の名刹である。川の氾濫で何度も流されこの地に慶長3年(1598)に再興されたものだという。檜皮葺の山門をくぐる。閑寂としている。そばに山裾が迫っている。山容は見上げても視界に入り切らない。南アルプスの一角に僕はいる。
午前10時である。街道筋の家の佇まいは古びて落ち着いて山の色と溶け合っている。この宿場は町並みが真っ直ぐなため鉄砲町と呼ばれた。人の姿はない。しずかである。山風もない。造り酒屋なのだろう二階屋の軒に杉玉のぶらさがるのがみえた。脇本陣だった西尾家である。水舟が三つ、四つ。さらにもう一つ。いたるところに水が湧き出、竹を切った樋から、ただ鉄管から湧き出ているもの、蛇口から垂れ流されているものにいたるまで、山の恵みのさわらの桶に煌めく水しぶきを上げている。背後に百名山空木岳をいただく木曽山脈の巨大な山塊が控えている。雪や雨水等が遠く伏流水となって山肌をくぐり、長い年月をかけて地表に噴出してくる水を引いているのだ。その水を口に含む。うまい。舌で転がし唸る。やがて滑らかに喉空におちていった。
幸田露伴も一夜を過ごし記録を残した宿場町だ。とろろ汁がうまかったなどと記している。月もよかったなどと書いている。正岡子規の句碑も残されている。
【7】倉本の集落へ 歩く幸せ
また歩く。言っている間に国道に出てしまった。
ぼんやりしていてはいけない。本来の街道から外れないように気をつけなければ。道があっているのかどうかふと迷う。不安になった。ちょうど脇に馬頭観音があった。人馬の往来を守ってくれる仏さま。これが出てくるなら中山道だ。間違いない。
歩く。
道筋はJRと並走したりまた国道に合流したりしている。かと思うと山中に入る。細い坂道の左右に古びた家並み。静かである。車両の喧騒がかき消える。つかの間、山間の集落の閑寂を得る。坂を下るとまた国道だ。「七笑の酒」「酒の木曽路」の大看板が出ていた。いずれも木曽路の銘酒だ。倉本の集落が近づいているはずだが、どこから山手に上るかわからない。
スキをみて国道を走って渡り斜面を登り左手に道を取る。車をガレージから出そうとしていた男性と目があった。会釈をくれる。穏やかな表情である。そう、野尻の花屋の女将さんがみせた人懐っこい柔和な表情、ねこのご主人の顔つきも柔らかだった。木曽路に入ってとげとげしい、そっけない顔を向けた人にまだ会ったことがない。
軒の低い家の、まばらに立ち並ぶ道をぶらぶら歩く。車が脇を通り先で止まった。さっきの男性が芝刈り機をトランクから引っ張り出しているところに追いついた。
男性は言った。「どちらから来なすった?」「野尻から来ました」「どちらまで?」「福島まで歩こうと思っています」「気をつけていきなされ」
たったそれだけの会話だった。口元に優しさをたたえた優しい表情だ。本当にそう思ってくれているんだ、と思えてくるから不思議だ。木曽路の人は優しい。
【8】心解きほぐされる
倉本の駅を指して坂を下る。稲刈りを終えた田圃で高齢のご夫婦が稲を干していた。僕の方を伺い見ている。「おはようございます」と声を上げると「どちらまで」という声が返ってきた。「福島です」「そうですか、お気をつけて」と会釈を送ってくれた。
さっきの男性のほがらかさ、この夫婦の穏やかさ。心ほぐされる。歩かねば、行かねばという気負いが消えていく。
歩くために歩く、そんな歩くことの意味を考えていた。なんのために歩くかなどどうでもいいじゃないか、とさえ思えてきた。これほど感銘を受けたことはない。力さえ湧いてきた。いくらでも歩けそうな気がしてきた。
中山道を歩く 旅は情け 至福のビール(三留野から野尻)20200921-⑥
【1】三留野 南木曽駅でやっと飯にありついて(前回続き)
ガイドブックは国道19号線と轍をほとんど一にして塩尻、松本へと進んでいる。馬籠、妻籠、三留野、野尻の四つの駅路を結んで日没までに歩く。
南木曾駅前のセブンイレブンで腹ごしらえをして態勢を整えた。14時30分だ。今日のゴール地点野尻まで残り二里半10キロほど。余分に見繕って3時間あれば完踏できる。まだ日がある内に野尻につくことができるということだ。焦ることはない。ブラブラ歩いても間違いなく着く。
15分ほど前に転がり下りてきた坂道を登り返し中山道に戻った。腹のむしは落ち着いたが疲労感がましたような気がする。腹休めのためにもっと休憩をとった方がいいのかもしれないが、元来が怠け者の僕だ、休めば休むほど「いやいや虫」が勝ち、このまま南木曽から中山道を撤退してしまうかもしれない。
歩いているうちに目も覚めるだろう。とぼとぼと歩きはじめた。古ぼけて眠たげな低い二階屋がぱらぱら立ち並ぶ道筋を何も考えずに歩く。家も少なく町並みも短い。大火でもあって江戸期の山家は焼け落ち、往時の姿を維持できなかったのだろうか。
やがて道筋は山手から下り国道19号線に合した。ガードレールの内側を歩くかと思えば、木曽川沿いに街道は走る。
【2】険しい道筋
今の国道は木曽川沿いの山を削り、また絶壁を拡幅し東海と信州の交通量を支えようとしたものであるらしい。この幹線道路ができる前までの道筋は峻険な悪路で崖の上を行くようなものだった。断崖に桟(木を並べ棚のようにしつらえて歩道としたもの)を設置して足場を確保したというが、かなり危険な行路であったことは間違いない。殿様の駕籠かき、牛馬、徒士、騎馬の何百人と縦隊を組む参勤交代の行列も、幕末に将軍徳川家茂に降嫁した天皇家の和宮様の夥しいほどの花嫁行列も、この深い谷沿いの、か細い道筋を本当に歩いたのだろうか、この旅を始めて、ことあるごとに「奇跡だ」と呟いてみているが、実感としてそう思う。
草臥れてちょうどよいベンチがあったので腰を下ろす。脇に立っている石碑になんと明治天皇御休憩云々とある。ご維新を、つまりこの世が一新されたことを満天下に知らしめようと明治天皇は全国を巡行された。その長大な旅の一節がこの木曽路の一角でも語られたということなのだろう。
地図を見るとこの先の柿其橋を渡った対岸に南の寝床という木曽川の景勝地があるらしい。立ち寄っている時間はないな、と水を飲み、また立ち上がりとぼとぼと歩きつづける。
【3】木曽路に夕映えが なぜ歩くのか
木曽路の山の端に日暮れの影を映し始めた。谷あいの日暮れは早い。
何のために歩いているだろうとふと思う。
マラソンランナーは走りたいから走るという。登山家は登りたいから登るという。僕は歩いて東京まで行きたいから歩く。そう決意したから歩いている。決めたことを反故にするのが気に沿わないから京都からの旅路を続けている。止めてもいいけど止めたらこれまでの歩いた250キロ以上もの行程の、時間も金も無意味に帰する。止めたらアカンし止まっても焦燥が高まるだけである。
ペットボトルの中がポチャポチャ音を立てている。スタスタとスニーカーの音が重なる。二つがバラバラに音を立てながらも微妙なポリリズムとなって歩行に一定のリズムを与えてくれる。どちらの音もまだ耳障りになってきていないところからすると僕の疲労はまだ序の口だ。
【4】旅人を慈しむ石仏様の眼差し
道筋はJR十二兼駅を過ぎ地下トンネルをくぐる。JRと国道の下を通って山側に入るのだ。金属パイプで足場を組んだ通路の下に谷の水が勢いよく流れている。ほとんど放水路である。トンネルを出て坂を上っていく。崖の下を走る国道は渋滞だ。見通せる限りの長さで車列はほぼ動かない状態だ。先の方で事故でもあったのだろうか。この分では1キロぐらいだと徒歩の方が早いかも知れない。そう思うとふと笑いがこみ上げてきた。そう僕はそれ以上の距離をずっと歩いている。山の彼方に陰影が深まっている。時刻は4時。馬頭観音さまに頭を垂れ旅の無事を二言三言のつぶやきに込める。道はアップダウンを繰り返す。中山道は再び国道を横切りJRを越えて木曽川沿いに進んでいく。
国道の壁面に埋め込まれるようにして往来を見守る観音さまもあれば生け垣の茂みを祠代わりに道筋を見守る観音様もある。街道沿いにはあまたの馬頭様、お地蔵様、道祖神様が往来を見守る。石に掘られた仏は、風化し、顔も姿も判然としないが、旅の人を労り牛馬を慈しんだ風土が行路に息づいている。
日没が迫ってきた。山の端に残照が映え木々に覆われた街道筋には暗がりが生まれ始めた。木漏れ日にはまだ力強さが残っている。いがぐりが青々と落ちている。ヒナギクの白く映えている。孟宗は中に姫を宿しているかのようだ。朝陽は力強く夕陽は優しい。一日の終わりを生き物に託すかのように優しい光で包んでいる。
【5】人生最高のビール
まもなく野尻だった。駅に着いたら一息入れよう。駅でビールでも飲もう。スマホで調べると駅前に酒屋があった。身体は疲れていたがビールのことを考えると急に元気が湧いてきた。街道は国道から離れ道筋に民家が立ち並びが見えだした。古い二階家があり軒下をみると「西のはずれ」とある。屋号を「はずれ」とした西村家の住宅だ。野尻の宿場の一番西、ということらしい。
いよいよ一日の徒路の終着点だ。街道は曲がりくねりながら細く伸びている。JRの駅はすぐそこだ。酒屋の看板が見えた。しめた。そこで缶ビールを買ってと思ったが、近づくとシャッターが下りている。自販機もない。なんてことだ。ああ、僕のビール! と胸の内で叫んでいた。
途方に暮れていると、隣の花屋から女の人が出てきた。店の女将さんらしい。不躾を承知で尋ねた。「近くにコンビニないですか?」「コンビニですか?」女将さんらしい人はちょっと驚いた様子言い「あるけど、かなり遠いよ。どうされました?」「ちょっとビールを買おうと思ったんですが、隣が閉まってまして」
僕は中山道を歩いている者で今日は馬籠から来たことも付け加えた。「ああそうなの」と女の人は目を丸くした。「でも隣は今日、生憎休んでますね」。
僕は天を見上げた。すると女将さんらしい人は「ちょっと待ってて」と言い置くと店の中に入って行った。待つ間に店の屋号は「やまろく」さんというのが分かった。しばらくすると女将さんが缶ビールを手に笑いながら出てきて「冷えたのこれ一本きりしかないけど、持っていってよ」とアサヒスーパードライの缶を僕に握らせた。傍らでご母堂か姑さんかわからないがご年配の方も笑っている。「これもね」とカレーせんべいの袋も握らせようとする。
「そんな、もったいない」と私は一応固辞した。「いいのよ、いいのよ。私はこれから飲み会があるから、もっていって」「ほんとですか」「いいよ、いいよ」
【6】優しさ
「夜明け前」の一節にこういうのがある。「旅人に親切にもてなすことは、古い街道筋の住民が一朝一夕に養い得た気風でもない。椎の葉に飯を盛ると言った昔の人の旅情は彼らの忘れ得ぬ歌であり、路傍に立つ古い道祖神は子供の時分から彼らに旅人愛護の精神をささやいている。至るところに山岳は重なり合い、河川は溢れ易い木曽のような土地に住むものは、殊にその心が深い」(第一部第五章)
中山道では行き交う人からお辞儀といっしょに「こんにちは」と挨拶をいただくことがある。関西ではそうはいかない。京都から大阪まで「京街道」という道を歩いたが挨拶の交換があったためしはない。中山道、とくに木曽路では旅人に対する気遣いが優しさを帯びている。眼差しが温かい。中津川から東が特にそうだ。
この日9月21日に歩いた妻籠でも和菓子屋の店員さんが空になった水筒に井戸水を補給してくれた。そして花屋さんの女将さんの気遣い。どこの誰ともわからない男に誰が缶ビールとせんべいをごちそうしてくれるだろうか。こういうのを最高のおもてなしと言わずしてほかに何があるだろうか。(9月21日 馬籠から野尻20キロを歩いた)
中山道を歩く 妻籠から三留野(4キロ弱)空腹を抱えての旅路は記憶喪失を誘発します(20200921-⑤)
【1】空腹を抱え恋しい妻籠を発つ
妻籠を発った。空腹を抱えながら。澤田屋さんでくりきんとんをひとつ頂いたものの、そのあと食べ物屋さんをもの色した。早朝7時過ぎにJR名古屋駅できしめんと天むすで腹ごしらえしたきりだ。もう13時を回っている。
妻籠宿に蕎麦屋は二つあったが満員だった。五平餅を焼く店もあったが、一本どころか何本食べるんだと白い目で見られかねないのでやめにした。情けない話だがいい歳こいて、何か食べたい、食べたいと思いながら歩き始めたのだ。
その一方で妻籠恋しさにも襲われる。町並みの佇まいに心打たれて出発するのが惜しい。後ろ髪を引かれるような追慕ももたげてきた。「鯉が岩」や「良寛の碑文」を横目に、宿場の外れまできて、もっとここにいたい、夜まで待ってその佇まいを目に収めて帰りたいという思いは募ったが、木曽福島までの50キロのこの旅を完遂する京都を出てきたときの決心が最後に勝った。でしぶしぶ歩き始めてものの、子供みたいに腹が減って弱音を吐きそうになったのだ。
そんなこんな複雑で情けない気持ちを抱えて坂を下る。緑の標識が所々に出ており、それを辿っていけば南木曽駅まで辿り着けそうだ。4キロ足らず1時間ほどの道筋なのでわけはない。途中コンビニのひとつくらいあるだろうと歩行を続けるがやっぱり近所にない。あきらめるんだ。と叱咤するが長くはもたない。
きまぐれに彼岸花の群れを写真に収めてみたりしながら行くものの、馬頭観音さまやお地蔵さまには目も気も向かない。帽子のひとつくらいとってお辞儀ぐらいすればいいのにさっさと歩くばかりである。大人気ないことである。
【2】木曽川の巨岩群に目を剥く
そうこうするうちに前の方の空気が広がり木曽川が視界に現れた。川面が巨岩巨石に埋もれている。上松宿の寝覚の床をはじめ川沿いにはと奇観名所が夥しい。目前の景色は白い花崗岩の堆積に占められている。家並みの上に平べったいだけのコンクリート橋桁が見え、そのさらに向こうに、主塔三本の吊り橋の影が見えた。事前の知識になく素通りしてしまったが、桃介橋と呼ばれ、向かいの読書ダム建設の資材運搬に使用された大正11年完成の近代化遺産のひとつである。
山を削りに削って谷を形成し、蛇行しあるいは直行し木曽川は今の形に収まった。岩石群はその歴史の産物だろうし、一度この大河が暴れると巨岩の群が同時に暴れる危険極まりない恐ろしさを想起させた。
檜林の間に、木曽川の姿を目に留めながら急ぐと、また視界が開け広大な敷地に木材がうずたかく積み上げられたコンクリートの空間が現れた。地図で確かめるとどうやら南木曽駅の材木ヤードであるらしかった。
それにしても壮観である。たぶん木曽の山々から切り出して丸太にした檜の集積場なのだろう。檜など木曽五木一本首一つと言われた封建時代なら何本の人首が並んだか知れない。ここの丸太はそのうちにJRの貨車に積み替えられて、中津川などに送られるのであろう。
【3】やがて三留野宿へ
緩やかに曲がりくねりながら駅路は続く。右手は急傾斜の山裾。左手は狭い平地が木曽川に遠慮して付いており、谷間の集落が道筋の左右に眠たげに佇んでいる。どうやら三留野宿に入ったようである。どこかに宿場名を記した標石か矢印かあったかもしれないが、見落したののかもしれない。町役場がありその崖の下に南木曽駅の古ぼけた駅舎が見えた。
もう一歩も歩くことすら嫌になっていた。7時過ぎに朝メシを食ってからもう14時をとっくに回っている。さっきからずっと熱中症予防の塩飴ばかりなめていたがもう我慢ならない。妻籠の銘菓澤田屋さんで入れてもらった井戸水も尽きかけていた(あのご厚意がなければ飲み水にも事欠く旅路だったのだ)。このあたりで何か食いもんを腹に入れておかなければ野尻に辿り着くことも覚束ない。
探すとやっとセブンイレブンが一軒あった。道々自動販売機すらなかったところにようやくオアシスが現れた。坂の下に徒歩3分と出ている。転がるように坂道を下り駅の方に向かうと、懐かしいばかりの緑の「7」のお馴染みの店構えが見えてきた。そのときほど生きた心地が立ち現れた記憶はない、といえば大袈裟だろうが、コンビニを神かゼウスかと振り仰いだ。入るとハイカーやドライブの観光客が昼飯を買い漁ったあとで、スパイシーカレーの売れ残りしかなかったが、金を払うと店の陰に入って人の目も構わず貪り食ったのである。
空腹は思考力を奪うことがある。特に私はその傾向が著しい。おかげで三留野宿の記憶はほとんど残せなかったお粗末な一里の旅だったのだ。(情けないがまだまだ続きます)
中山道を歩く 妻籠へ 旅はくりきんとん 旅は水(20200921ー④)
【1】一路妻籠へ 険路の街道
馬籠と妻籠は互いに隣村だが、聞くからに親しいニュアンスが含まれている。兄弟姉妹か、親戚筋かという宿場名の韻、籠(人家が集まった集落の意)を共有している。本陣の宿の主は双方とも島崎家ときている。近親であることに違和感はない。
こうした背景説明はそれとして、僕は、二つの宿場がニコイチに見えていた。距離的に。二里(8キロ弱)の距離はひとっとびぐらいの時間じゃないのかと。ランニングすれば1時間かからない距離だ。10キロ未満の旅は旅でないがごとくである。あまりにも想像力がなさすぎてこの峻険な山間の往還にいかばかりの労苦が待ち受けているかなど考えも及ばなかったのだ。
歩いてみてわかった。「夜明け前」の青山半蔵やその父吉左衛門らは繁く両宿を往復する。朝出て夕方に帰ってくるような描写もありどんな道だろうと歩いてみたらとんでもない険路だった。馬籠峠の標高801メートルを真ん中として馬籠が600メートル、妻籠は430メートルだ。馬籠峠〜妻籠の標高差はざっと400メートルもある。ちょっとした山歩きである。いや正真正銘の山歩きである。ハイキングコースと旅行本に紹介されているが、なめてかからないほうがいい。ハイキングとしてみれば2時間から3時間の歩行。ただこれは僕たちがトレッキングシューズやなど装備が格段に進歩し道も舗装路あり地域の方々に点検整備された登山道(旧街道)という条件が揃ったうえでの時間である。命を落とす危険がまったくないわけではないが江戸時代はそういうわけにはいかない。僕が歩いている木曽路は2020年初秋の木曽路である。
【2】街道は秋 (捻挫に注意)
僕は一石栃立場茶屋(いっこくとちたてばちゃや)を辞して出発した。山道が続く。木洩れ日が暗い地面に白い輪を散りばめている。汗はさほどでもない。そこは南木曽の山中である。青々としたいがぐりがころがっていたりしている。とげに注意して開いた“いが”の中に指を差し入れてみる。内側の白い部分がまだ湿っている。落ちたばかりなのだ。秋がはっきりと始まっている。
坂のアップダウンが続く。スニーカーで来ていたことを少し後悔している。坂道でのグリップが弱いのだ。家に置いてきたハイカットのザンバランの登山靴を思ったが、重い山靴で木曽路50キロの旅は少々つらい。しかしスニーカーはやっぱりスニーカーだ。下り斜面で両脚をつっぱるとソールが柔らかいため足首が悲鳴を上げる。こんなところで捻挫などしたら笑いものだ。
子供のはしゃぐ声がする、その家族連れを追い抜く。妻籠方面から上って来たハイカーらはやはり息を切らしている。汗もだらだらだ。妻籠からは標高差400メートルの登り一辺倒。馬籠方面からはほとんど下りなので楽だ。「夜明け前」の登場人物らもそうだが、昔の人は一日に30キロとかそれ以上を歩いた。物資の運搬、買い出し、関所との連絡、商売の関係、知人宅への訪問・・・毎日の生計のために長い距離を歩くのが当たり前だった。そのことが驚異的に思えてくる。
窪地に出た。田圃があった。農家の男性が小型のコンバインを操っていた。空は濃青で高い。稲穂が黄色くまた重々しくたれている。機械がひと唸りし音が鳴り屑が宙に舞う。パイプから籾が吐き出され大きな袋に落ちていく。
近くに名勝「男滝・女滝」とガイドブックにあったが、そこはやりすごし暗い檜林の道を急ぐ。
【3】牛頭観音さま
前が明るくなった。先はすとんと切れ落ちている。集落らしい人家が谷底に見えた。妻籠宿の西の外れ大妻籠(奥妻籠が訛ったものらしい)のようだ。県道七号線のアスファルト道も街道に絡むように走っている。この見晴らしのいい場所は「下り谷」というらしい。
斜度がさらに厳しくなっていた。道の脇に野ざらしになった石の観音様があった。「牛頭観音」の駒札がある。
馬の頭を観音様に乗せて彫った馬頭観音はこの街道沿いに珍しくないが牛頭は珍しい。中山道に唯一のものであるらしい。馬頭観音様は道中、落命した馬を悼んで街道をゆく人や馬の無事を願って祀った。こっちはこの急斜面で命を落とした牛を祀ったものだと駒札は紹介している。木曽路はすべて山の中。荷物の運搬に使役された牛馬にとっても並大抵の山道でなはなかったということだ。帽子をとり一礼し、またあるき出す。
【4】大妻籠 卯建の集落
大妻籠の集落に入る。旅籠の看板が上がっている。古い民家が一列に並ぶ。ひときわ大きいのが目についた。「つたむらや」という旅館だった。二階が道側に張り出した豪壮な木造建築物だ。出梁造りというのだった。軒板の下に梁が突き出して二階を支えている。構えを大きくし立派に見せる建築方法だった。壁に薪が積み上げられ刈り取りを終えたばかりの稲穂が架干しされている。人家は全部で六、七軒もあるだろうか。どの家も卯建が立派だ。
卯建の上がらないという言い伝えがある。低い身分だ、稼ぎが悪い、という意を含んでいるが、この木曽の集落で卯建は実質的な防火手段である。家屋の妻側の壁を軒先まで伸ばして類焼を防ぐ真の防火設備であった。
各地の宿場は昔、大火の悲哀を被ってきた。一度火が出ると長屋式に立ち並ぶ集落はひとたまりもない。馬籠も明治、大正と焼けた。卯建は防火の証だ。
【5】妻籠
妻籠の宿に入った。12時30分。水音がする。川音ではない。山から引いた水が檜らしい大木をくり抜いた水槽に音を立てていたのだった。街道の左側を木曽の山々に発する蘭川(あららぎがわ)の瀬が淡く光っている。細い道が枡形に折れ曲がり家並みを遮っている。
出梁造りの民家が並ぶ。中を開け放ち白白と障子が眩しい。店先に藍暖簾に妻籠と白く染め抜かれたのがわずかな風に揺れている。古そうな集落だ。古く見せているのではない。作り物ではない本物の古さである。集落全体が乾いた栗の実のような色に落ち着き、振り返って仰ぎ見た山の緑に溶け込んでいる。上嵯峨屋のような江戸期の木賃宿(自炊専用の安宿)も残っている。
【6】宿場の継承とは
宿場や古民家の継承は簡単なことではない。
僕は京都に住んでいる。町のあちこちに紅殻格子に厨子二階で虫籠窓の江戸期、明治期の京町家が数多く残っているが次々と姿を消して行っている。維持には手間もお金もかかる。行政の町家保存のテコ入れも十分ではないので、高齢化した住人は壊してツーバイフォーの便利な家に建て替えるか、売り払って他へ移ったりしている。そのことを思うとこの集落が百年いやそれ以上の歴史を経た町並みをまるごと保存しているのは、これも奇跡的だと思うのである。
戦後の経済復興が進み妻籠は過疎化が進んだ。一九七〇年台に妻籠は町並み保存運動に乗り出し、一九七六年には国から重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた。この田舎で古民家を維持し生き抜いていくことは並のことではない。生計を立て暮らす。生業を持たなければ行きていけない。商売をし(観光客誘致)で事業資金や生活資金を得、行政の力を借りながらこの町並みを生かす。歴史遺産というものはただで手に入るものではないとうことが思い知れるのである。地域の人のがんばりが残したわが国の歴史遺産だと思うのだ。
残念なことだが馬籠にはそれがない。明治、大正の火災で集落の大半が焼けてしまい今ある建物のほとんどはのちに再建されたものばかりであるからだ。対象的に妻籠は運良く焼けなかった。だからこそ本物の古さがあそこにある。
【7】くりきんとん 旅は情け 旅は水
ちょうど昼時分だし昼食にしようと思って店はないかきょろきょろしていた。「くりきんとん」と紙が下がっていた店があり、女の店員さんが二人、にこにこしているので思わず中に入ってしまった。木曽路の名物「くりきんとん」。「澤田屋」と暖簾にあった。たくさんは荷物になるので困るなあとショーケースを見ていたら「ひとつからでも大丈夫ですよ」と丸顔の一人が声をかけてくれたのでひとつだけ所望した。金を払ってどこで食おうかと探していたら「軒下のベンチをお使いくださいね」と勧めてくれた。
「どちらからおいでですか」「京都からです」僕は中山道をボチボチ歩いていることを説明した。「またそれはようこそ妻籠まで。ゆっくり食べてくださいね」
紙包を開け齧りついた。ほんのり薄い緑の、さっくりした口溶け感。淡い甘味が広がる。
街道の西の外れにある、さっき自分が下りてきた峠のある山を見上げ、吹き下ろす風に心地よいものを感じ、ひとときの旅の風情を身体で受けていた。
木曽路のお菓子を水で飲み下してしまうと空腹感が増して来た。もう一個食べるか、一個ではきかないだろう。もう一個二個くれと言うのもこっ恥ずかしい。ともかく、軒下を借りたお礼を言おうと店の前に立って、「美味しかったです。ありがとうございました」と頭を下げると「京都の人に美味しいと言っていただいてよかったです」と反対に礼をいわれて恐縮してしまった。
店員さんは私のザックのサイドポケットに挿して合った水筒に目を向け「注ぎ足しておきましょうか」と丸顔に笑顔を浮かべている。「いいんですか」「どうぞどうぞ」と僕の「プラティパス」の水筒に井戸水を入れて戻って来てくれた。「旅の無事を祈ってますよ」と励ましの声までいただいて、恐縮しきって二度三度頭を下げ僕は店を後にした。この水があとで効いてくる。
空腹もぎりぎりなんとか我慢できそうだった。それも朝、名古屋駅できしめんと天むすをたらふく食べた根拠のない自信からだった。ええい。步こう。歩いてコンビニでも探そう。歩きながらスマホの地図アプリをいじる。だが画面には食い物屋はあるはずもなくコンビニもどこにもなかった。中山道はコンビニと無縁の街道だった。(続く)
中山道を歩く 馬籠から妻籠へ 一石栃立場茶屋(いっこくとちたてばじゃや)(20200921)
【1】馬籠を出発
上陣場を出た。恵那山の裾野の広がりをビール片手にいつまでも眺めていたい気がしたがそうはいかない。歩かねばならない。旅に時間の制約を設けているのが裏目に出た格好だ。道の左右からどんどん人が上がって来る。左は僕が今立ち去ろうとしている馬籠の集落の坂。右はこれから向かう妻籠の山道だ。シルバーウイークに入り人出が戻りつつある。この分だと妻籠も観光客で混雑している恐れがある。つまりなにかにつけて時間がかかる懸念がある。急いだ方がいいかもしれない。
石畳の道と土の道が交互に現れる。アップ・ダウンを繰り返す。日陰が多い。熊除けベルがあった(馬籠〜妻籠間に何箇所もある)。真鍮製の釣鐘型のが杭の先からぶら下がっている。紐を振って鳴らす。金属音が木立の間に高く響く。熊を驚かすには十分な威力だと思った。前を行くパーティーの女性が振り向く。「びっくりするじゃないの」と言ったのかと思った。
【2】峠の集落
道は山腹を縫い、また尾根伝い続く。いつしか集落に出ていた。馬籠峠が近い。地図に「峠の集落」とあった。鄙びた感じの家並みで観光地と化している馬籠の賑わいを忘れそうだ。立派な構えの旅籠もある。ここも立場茶屋のひとつなのかもしれない。立場茶屋とは宿場と宿場の間に設置された馬を継ぎ立てたり飛脚や人足、駕籠かきが休憩したりする場所だった。参勤交代の大名が休憩するなど身分の高いお武家様も立ち寄ることから自然、家屋の構えも中の設えも仰々しくなる。庶民だけのお休み処なら気張らないが。
宿場の経済は大名の参勤交代が落とす莫大な経費が支えていた。お武家様のおもてなしは気苦労が絶えないがそれも山の中で行きていくためなら仕方ないのかもしれない。
【3】馬籠峠
舗装路に出た。坂に頂上が見えた。峠だ。標識に長野県南木曽町とあった。11時17分。崖の法面に岐阜県・長野県の県境の表示が打ち付けられていた。令和元年5月2日に京都を発ち1年5か月かかってやっと長野県に入ることができた。
妻籠へ向かう。茶屋は閉まっていた。峠を下る。草木が深い。檜の木陰が快適な山道を確保してくれている。先を急ぐ。石畳の道が現れた。歩きにくい。不揃いの石を地面に敷きつめたもので、でこぼこしている。ぼうっとしていると躓く。石畳は、雨でぬかるみ荷駄を進めづらかった時代の舗装路だった。現代、馬を駆って移動する人はいない。物資を背負って、または馬に車を牽かせてものを運ぶ人はいない。大半が気ままに歩く僕のような人の通り道である。観光客の歩く道である。道というものは時代のニーズによって性格を変えると言えるのだろう。旧街道というものは歩きにくさからも歴史を振り返ることができる路なのかもしれない。
【4】一石栃立場茶屋
明るい場所に出た。ものを燃やす臭いがする。大きな農家らしい家が見えてきた。壁沿いに薪をたっぷり積み上げている。二階部分がずっしりとした重厚な造り。暖簾が下がっている。「いちこくお休処」と看板が出ていた。入ってみる。テーブルに紙コップがあり、ポットと急須もあった。自由に飲んでよさそうだった。小さな子を連れた家族連れが憩いでいる。地元の人らしいほっそりとした男のお年寄りが衿に「妻籠宿」とある紺の法被姿で奥に座っていた。ここの人なのか、なんだろう。訊くと、留守番だという。妻籠の方から通っているとのことだった。ここも宿場と宿場の間に設けられた立場茶屋だったのだろう。
「お茶いただきますね」と声をかけると「どうぞ、どうぞ」と表情を和らげた。熱い焙じ茶を啜りながら見上げると大きな梁が縦横に走っている。灰を敷いた囲炉裏端があり天井から下ろされている鉄の棒に鉄瓶が音もなく下がっていた。脇には足踏み脱穀機や千歯扱きのような古い農機具も置かれ、ふいに得体のしれぬ情緒に包まれた。
「ずいぶんと年季が入った建物ですね」
「文化11年のものだといいますね」とぼそっと言う。「文化」といわれてもぱっとわからない。調べてみると1814年だった。ざっと200年以上前の建物。彦根藩の井伊直弼が翌文化12年に生まれている。馬籠の清水屋の建物は1900年前後からの遺物だった。それで100年ぐらいだったがこっちはその倍である。
「大きな柱でがっしりとした造りですね」と僕は煤で黒ぐろとした天井を再び見上げた。天井も柱も梁も筋交いも黒以外の色がついているものは稀である。人が住む木造建築物は色を黒くしないと生き残れなかったのだろうか。
「ちょっと想像力を働かせてもらうとわかるんですがね」
「想像力ですか?」僕はたじろいだ。質問が直球すぎて頭が混乱した。旧街道とその街道沿いの建物の解釈に必要な想像力って何なのだろう。
「宿場はなんのためにあるかご存じでしたか?」留守番の男性はそういって目を細めた。「わかりません」僕は首を振った。
「もちろん一般庶民の往来のためでもあったのですが、もとは幕府のためのものだったのですよ。参勤交代や藩の要人がスムーズに行き来できるように街道が整えられた。その旅を支えるために宿場が設置されたのですよ」
「ごらんなさい、あの奥の畳の間」なるほど囲炉裏を囲んだ広い板敷きの向こうに障子戸があり広々とした和室があった。
「あそこで幕府や大名の武士は休憩しました。一方、庶民は板の間。えらい人は畳の間でもてなされました。建物のつくりが立派なのは同じ理屈です」
公儀や諸侯が立ち寄るのにみすぼらしい建物では示しがかない。お叱りさえ受ける。恥ずかしくないものにしようという羞恥が作用してこんな深い山あいに立派な茶屋を立てた。
「この茶屋の二階部分が軒にかぶさるようになっているのに気づきましたか。大きく立派にみせる工夫だったのです」
表に出て確かめてみると二階が一階より前面に張り出していた。梁が何本も外に突き出て二階を支えている。こうした家の造りを出梁造りという。木曽路の宿場の典型だという。
夫婦連れが入って来たのを潮に僕は立ち上がり留守番の男性に礼を言って外に出た。
出梁造り。豪壮だ。この山間に不必要なくらいに。そのとき不意に去年の夏に歩いた中山道は美濃の赤坂宿の話を思い出した。幕末、公武合体の名のもとに徳川家茂に降家した皇女・和宮。輿入れする行列が中山道を進むことが決まった。もちろん赤坂の宿も通る。その報に触れ、宿場では家を建て替えたり、通りに面した部分だけ二階にみせたりの「嫁入り普請」が行われた。この急な普請は、金を出すからと幕府が住民を説得して行われたものだったという。
幕府はすでに瓦解が進んでいた世にあってまだ権威をちらつかせたかったのだ。庶民は公儀に頭を押さえつけられ公儀は皇族に見栄をはった。哀しいような笑いたくなるような、愚かなような真面目であるような、昔の人はそうした世相の中を生き抜いていたのだ。ちなみに金を出すと幕府が約束した普請費用は、やがて世が明治時代に移り、結局支払われなかったという。
(→次回 妻籠宿)