中山道をゆく

中山道を歩いています。景色も人も歴史も電車や車で味わえない、ゆっくリズムが嬉しい。

中山道を歩く 馬籠から妻籠へ 一石栃立場茶屋(いっこくとちたてばじゃや)(20200921)

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馬籠から妻籠までの石畳

 【1】馬籠を出発

 上陣場を出た。恵那山の裾野の広がりをビール片手にいつまでも眺めていたい気がしたがそうはいかない。歩かねばならない。旅に時間の制約を設けているのが裏目に出た格好だ。道の左右からどんどん人が上がって来る。左は僕が今立ち去ろうとしている馬籠の集落の坂。右はこれから向かう妻籠の山道だ。シルバーウイークに入り人出が戻りつつある。この分だと妻籠も観光客で混雑している恐れがある。つまりなにかにつけて時間がかかる懸念がある。急いだ方がいいかもしれない。

 石畳の道と土の道が交互に現れる。アップ・ダウンを繰り返す。日陰が多い。熊除けベルがあった(馬籠〜妻籠間に何箇所もある)。真鍮製の釣鐘型のが杭の先からぶら下がっている。紐を振って鳴らす。金属音が木立の間に高く響く。熊を驚かすには十分な威力だと思った。前を行くパーティーの女性が振り向く。「びっくりするじゃないの」と言ったのかと思った。

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熊除けベル

 【2】峠の集落

 道は山腹を縫い、また尾根伝い続く。いつしか集落に出ていた。馬籠峠が近い。地図に「峠の集落」とあった。鄙びた感じの家並みで観光地と化している馬籠の賑わいを忘れそうだ。立派な構えの旅籠もある。ここも立場茶屋のひとつなのかもしれない。立場茶屋とは宿場と宿場の間に設置された馬を継ぎ立てたり飛脚や人足、駕籠かきが休憩したりする場所だった。参勤交代の大名が休憩するなど身分の高いお武家様も立ち寄ることから自然、家屋の構えも中の設えも仰々しくなる。庶民だけのお休み処なら気張らないが。

宿場の経済は大名の参勤交代が落とす莫大な経費が支えていた。お武家様のおもてなしは気苦労が絶えないがそれも山の中で行きていくためなら仕方ないのかもしれない。

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峠の集落

 【3】馬籠峠

 舗装路に出た。坂に頂上が見えた。峠だ。標識に長野県南木曽町とあった。11時17分。崖の法面に岐阜県・長野県の県境の表示が打ち付けられていた。令和元年5月2日に京都を発ち1年5か月かかってやっと長野県に入ることができた。

 

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馬籠峠

 妻籠へ向かう。茶屋は閉まっていた。峠を下る。草木が深い。檜の木陰が快適な山道を確保してくれている。先を急ぐ。石畳の道が現れた。歩きにくい。不揃いの石を地面に敷きつめたもので、でこぼこしている。ぼうっとしていると躓く。石畳は、雨でぬかるみ荷駄を進めづらかった時代の舗装路だった。現代、馬を駆って移動する人はいない。物資を背負って、または馬に車を牽かせてものを運ぶ人はいない。大半が気ままに歩く僕のような人の通り道である。観光客の歩く道である。道というものは時代のニーズによって性格を変えると言えるのだろう。旧街道というものは歩きにくさからも歴史を振り返ることができる路なのかもしれない。

 【4】一石栃立場茶屋 

 明るい場所に出た。ものを燃やす臭いがする。大きな農家らしい家が見えてきた。壁沿いに薪をたっぷり積み上げている。二階部分がずっしりとした重厚な造り。暖簾が下がっている。「いちこくお休処」と看板が出ていた。入ってみる。テーブルに紙コップがあり、ポットと急須もあった。自由に飲んでよさそうだった。小さな子を連れた家族連れが憩いでいる。地元の人らしいほっそりとした男のお年寄りが衿に「妻籠宿」とある紺の法被姿で奥に座っていた。ここの人なのか、なんだろう。訊くと、留守番だという。妻籠の方から通っているとのことだった。ここも宿場と宿場の間に設けられた立場茶屋だったのだろう。

 

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一石栃立場茶屋(旧牧野家)

「お茶いただきますね」と声をかけると「どうぞ、どうぞ」と表情を和らげた。熱い焙じ茶を啜りながら見上げると大きな梁が縦横に走っている。灰を敷いた囲炉裏端があり天井から下ろされている鉄の棒に鉄瓶が音もなく下がっていた。脇には足踏み脱穀機や千歯扱きのような古い農機具も置かれ、ふいに得体のしれぬ情緒に包まれた。
「ずいぶんと年季が入った建物ですね」

「文化11年のものだといいますね」とぼそっと言う。「文化」といわれてもぱっとわからない。調べてみると1814年だった。ざっと200年以上前の建物。彦根藩井伊直弼が翌文化12年に生まれている。馬籠の清水屋の建物は1900年前後からの遺物だった。それで100年ぐらいだったがこっちはその倍である。

 

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一石栃立場茶屋② しだれ桜がみずみずしい 軒に突き出た木材(梁)が印象的だ

 「大きな柱でがっしりとした造りですね」と僕は煤で黒ぐろとした天井を再び見上げた。天井も柱も梁も筋交いも黒以外の色がついているものは稀である。人が住む木造建築物は色を黒くしないと生き残れなかったのだろうか。

「ちょっと想像力を働かせてもらうとわかるんですがね」

「想像力ですか?」僕はたじろいだ。質問が直球すぎて頭が混乱した。旧街道とその街道沿いの建物の解釈に必要な想像力って何なのだろう。

「宿場はなんのためにあるかご存じでしたか?」留守番の男性はそういって目を細めた。「わかりません」僕は首を振った。

「もちろん一般庶民の往来のためでもあったのですが、もとは幕府のためのものだったのですよ。参勤交代や藩の要人がスムーズに行き来できるように街道が整えられた。その旅を支えるために宿場が設置されたのですよ」

「ごらんなさい、あの奥の畳の間」なるほど囲炉裏を囲んだ広い板敷きの向こうに障子戸があり広々とした和室があった。

「あそこで幕府や大名の武士は休憩しました。一方、庶民は板の間。えらい人は畳の間でもてなされました。建物のつくりが立派なのは同じ理屈です」

 公儀や諸侯が立ち寄るのにみすぼらしい建物では示しがかない。お叱りさえ受ける。恥ずかしくないものにしようという羞恥が作用してこんな深い山あいに立派な茶屋を立てた。

「この茶屋の二階部分が軒にかぶさるようになっているのに気づきましたか。大きく立派にみせる工夫だったのです」

表に出て確かめてみると二階が一階より前面に張り出していた。梁が何本も外に突き出て二階を支えている。こうした家の造りを出梁造りという。木曽路の宿場の典型だという。

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一石栃立場茶屋の案内

 夫婦連れが入って来たのを潮に僕は立ち上がり留守番の男性に礼を言って外に出た。

出梁造り。豪壮だ。この山間に不必要なくらいに。そのとき不意に去年の夏に歩いた中山道は美濃の赤坂宿の話を思い出した。幕末、公武合体の名のもとに徳川家茂に降家した皇女・和宮。輿入れする行列が中山道を進むことが決まった。もちろん赤坂の宿も通る。その報に触れ、宿場では家を建て替えたり、通りに面した部分だけ二階にみせたりの「嫁入り普請」が行われた。この急な普請は、金を出すからと幕府が住民を説得して行われたものだったという。

 

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美濃 赤坂宿の町並み

 幕府はすでに瓦解が進んでいた世にあってまだ権威をちらつかせたかったのだ。庶民は公儀に頭を押さえつけられ公儀は皇族に見栄をはった。哀しいような笑いたくなるような、愚かなような真面目であるような、昔の人はそうした世相の中を生き抜いていたのだ。ちなみに金を出すと幕府が約束した普請費用は、やがて世が明治時代に移り、結局支払われなかったという。

(→次回 妻籠宿)