中山道を歩く 馬籠宿(20200921)
2 馬籠宿
9時35分。定刻通りにバスは馬籠に着いた。駐車場は満車である。2月24日のコロナ自粛が高まりつつあったあの春先に来たときとはエライ違いである。宿場の入り口からして土産物屋と食い物屋が立ち並ぶ。東京GO・TO解禁、自粛疲れを吹きとばせとばかりにすでに大勢の人出だ。
馬籠そしてこのあとに続く妻籠は完全無欠の観光地である。京都であれば清水寺、東京であれば浅草のような、人が来て寺社や古い建築物を見、土産物を買って帰る場所だ。旧宿場って普通、古臭い建物しかない。細い曲がりくねった道の両脇に低い町家が並ぶ風情、それがありきたりの、普通の宿場町だ。それが土産物屋に混じってそばや五平餅ばかりかアイスクリームを売るような土地柄になっている。それを悪いとはいわないが集客力という点では別格である。
今日はまず島崎藤村が世話になったという清水屋に行かなければならない。そこの女将さん(というか住人)に会って名前を訊かなければならない。
清水屋は変わらず明治期の姿のまま坂の途中にあった。京都方面からなら水車小屋を越えてすぐ右側の場所だ。木造2階建て出格子の間口の広い町家は明治28年(1895)の大火のあと建て替えられたものだ。大黒柱を中心に太い梁に貫かれ重厚なつくりとなっている(国の登録有形文化財、2013年に中津川市の景観重要建造物に指定)。その後宿場は大正4年(1915)に再び大火に見舞われたがこの清水家は類焼を免れ今にいたっている。中は島崎藤村が執筆したと伝わる二階の和室や藤村ゆかりの品々が展示されている。馬籠宿西の玄関口にある石碑「是より北 木曽路」は藤村の筆による。その原板がここ清水屋に保存されている。
どうして最初に清水屋か。2月24日に来たとき女将さんのお名前を聞くのを忘れていたからである。わざわざ聞かなくてもと思うが、記録の中で実在性が明確になる。高齢の女性の方がいた、と書くか○○さんと正確に書くのとでは記憶の固着性が高まる。聞くことによって手紙を出すこともできるしひょっとすると今後も消息が知れるかもしれない。
「こんにちは、今年の2月に伺った京都の者ですけれど」などと声を発すると出てこられた。玄関口は土産物の手芸品が売られている。
藪から棒とはこのことだ。失礼とは思いつつ恐縮して待っていた。さっさと歩く姿は年齢を感じさせない。80いくつだと言っておられた(84歳だったと思う)。
「はい、はい」と頷いておられたけど、「今年2月に京都から? 何言ってんの?」と感じられたに違いない。
「そのとき、お名前をお聞きするのを忘れましてね、それから気になって気になってもう一度ここへ来る機会があったものですから、今回はお聞かせ願ってとこの集落に着くなりやってきたんですよ。お変わらずにいられて嬉しかったです」などと前口上を述べた(なんと不躾なことよ)。
「ああ、そうですか、それなら、私、富子といいます」
「『鍋蓋』に『一』書いて『口』書いて『田』を書いて「富子」といいます」
すらすらとおっしゃった。ほとんど早口言葉である。よほど言い慣れたものであるに違いない。
「私、本当は松本の出なんですよ。それがいつしか馬籠の土地言葉を話すようになってしまいました」
話す単語やイントネーションに訛りなど何も混じっていないが。
何か気にしているものがあるのかも知れない。なんだろう。
「私も一人娘、結婚した主人も一人っ子だったもんですから、主人が亡くなってしまってこの店を守るものは私しかいなくなりました。神奈川県の川崎に娘がいます。孫がこの町のバス停の近くで暮らしています。ゆくゆくはどちらかがこの家を引き継いでくれたらいいですけれど。それまでがんばります」
「私、京都から来た、中川といいます。申し遅れました」
「京都から? そうなんですか。私、妙心寺へたまに行くんですよ」
妙心寺とは京都の花園の46もの塔頭が立ち並ぶ臨済宗の巨刹である。
「家が檀家でございましてね。行くことがあるんです」
前に松本の学校の先生の令嬢だったと言っておられたような記憶がある。どんな名家か由緒ある家の出なのか、わからない。馬籠の田舎に嫁いで来たことに何か気に病んでいるか、気にそぐわないものがあったのか、やけに松本を強調する。
「このような古い屋敷をお一人で守ってこられて大変ですね」と尋ねてみたくなった。「大変ですよ」と彼女は言うだろう。それを彼女は子供や孫があとを継いでくれるまで頑張ると言っている。ただそれが本当に彼女がしたかった暮らしや人生なのだろうか。松本のことをあまりに言うのでふとそんなことを思った。
2月に来たとき、ここで暮らしていた藤村の息子の世話を原家の嫁として行ったことを話してくれた(四男・楠雄のこと)。楠雄が寝起きした通りに面した部屋も案内してもらった。
彼女はこの集落の島崎家が成したいくつかの史実の空気を吸った生き証人なのだが、この店の守役が彼女のしたかったことだったのだろうか? 松本から出なければならなかったことになにか納得できない昏さを彼女に感じたのは勘繰り過ぎだろうか。
店を辞し再び坂を登る。馬籠は坂の集落である。土産物、五平餅の看板が立ち並び人が列を作っている。食べ歩きの人の姿も目立つ。
上陣場にある見晴台に出た。
陣場とは豊臣秀吉が徳川家康と小牧長久手で戦ったとき、徳川方が馬籠宿に陣をしいたことからそう呼ばれた。その上部の見晴らしのよい場所を上陣場と呼ぶ。
恵那山が一望だ。台形の山が長い裾野を左右に広げ悠然と屹立している。空には数片の雲のかけらが浮かぶばかりだ。
足下は坂の集落の赤や黒の屋根の連なりが、黙って下っている。山また山の険峻な土地。集落はそうした山々の枝稜のまた枝の稜線上に張り付いている。よくもこんな坂道に宿場町を開き大名行列を迎えたものだ。そのことが奇跡的である。(続く 次回は妻籠)