中山道をゆく

中山道を歩いています。景色も人も歴史も電車や車で味わえない、ゆっくリズムが嬉しい。

中山道をゆく 大津市内を歩く②

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膳所城下の佇まい

 膳所は長く瀬田川に面した城下町であった。白壁、格子窓や長塀の屋敷が立ち並ぶ。江戸期の空気が佇まいのふとした陰に落ちている。曲がりくねった角の多い街道が湖に沿って続いている。ところどころに小さな石碑が家々の軒下に配され、例えば「膳所城北総門跡」などと刻まれている。城域は意外と広い。

 

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膳所城跡公園の城門(模擬)

 城は湖にせり出した水城だった。二の丸、北の丸、天守閣をもった本丸が琵琶湖に突出していた。ために石垣も城壁も波の侵食を受け、絶え間なく修復に手数と金がかかって藩の財政を圧迫した。

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城域を示す石碑

 膳所城は関ケ原の戦いのあと1601年に徳川家康江戸城大坂城名古屋城などに先んじて天下普請の城の第一号として建てさせた城である。この地を選んだのは三キロほど南の瀬田の唐橋が古来より「瀬田の唐橋を制するものは天下を制する」といわれるほど軍事・交通の要衝だったことによるらしい。以後譜代大名の居城となり戸田家、本田家などが主となり明治維新まで続いた。
 

 城は数奇な歴史を背負っている。

 木材や石垣など建材の多くは廃城とされた大津城から移築されたものである。今の浜大津にあった大津城は豊臣秀吉が北東の草津と結ぶ湖上交通を掌握するために1586年に建てさせた水城で、天守は湖岸に面し城は港の機能も兼ね備えていた。1600年、城主は京極高次であった。関ヶ原の戦いの前哨戦で城は激しい攻城戦の舞台となった。京極は東軍に属し兵は3千と少なかったが、京都の伏見城を落として攻め上ってきた西軍1万5千を幾度となく押し返し、9月14日までの約1週間この大軍を釘付けにして15日の関ケ原の本戦着陣を遅らせた。
 

 坂本城は大津城の5キロほど西にあった。織田信長比叡山焼き討ちの翌1571年にその山麓明智光秀に建てさせた。目的は言うまでもなく延暦寺の押さえである。また琵琶湖西岸の今の161号線である西近江路や裏の谷筋を南北に縦断する若狭街道鯖街道)を監視する戦略的拠点の意味合いもあった。壮麗な城で織田信長安土城に並ぶほどであったといわれる。
 だがこの城も毀(こぼ)たれる。1582年の本能寺の変、そして山崎の合戦を経て城主・光秀が京都小栗栖の山中で斃れると、天下を掌握した秀吉は大津に城を建て坂本城を廃城とした。

 織田信長明智光秀に命じて建てさせた坂本城豊臣秀吉によって廃され、秀吉が建てさせた大津城は徳川家康によって壊され、膳所城だけが明治維新まで残った。これら3つの琵琶湖岸の城は直線で10キロほどの線上にあり、坂本から膳所までの端から端まで車で30分ほどだ。

 そんな近い距離にある3つの城の変遷に、戦国から安土桃山そして江戸時代にかけての3人の英傑の栄枯盛衰をみるのは奇跡に近い。