中山道を歩く 馬籠宿(20200921)
2 馬籠宿
9時35分。定刻通りにバスは馬籠に着いた。駐車場は満車である。2月24日のコロナ自粛が高まりつつあったあの春先に来たときとはエライ違いである。宿場の入り口からして土産物屋と食い物屋が立ち並ぶ。東京GO・TO解禁、自粛疲れを吹きとばせとばかりにすでに大勢の人出だ。
馬籠そしてこのあとに続く妻籠は完全無欠の観光地である。京都であれば清水寺、東京であれば浅草のような、人が来て寺社や古い建築物を見、土産物を買って帰る場所だ。旧宿場って普通、古臭い建物しかない。細い曲がりくねった道の両脇に低い町家が並ぶ風情、それがありきたりの、普通の宿場町だ。それが土産物屋に混じってそばや五平餅ばかりかアイスクリームを売るような土地柄になっている。それを悪いとはいわないが集客力という点では別格である。
今日はまず島崎藤村が世話になったという清水屋に行かなければならない。そこの女将さん(というか住人)に会って名前を訊かなければならない。
清水屋は変わらず明治期の姿のまま坂の途中にあった。京都方面からなら水車小屋を越えてすぐ右側の場所だ。木造2階建て出格子の間口の広い町家は明治28年(1895)の大火のあと建て替えられたものだ。大黒柱を中心に太い梁に貫かれ重厚なつくりとなっている(国の登録有形文化財、2013年に中津川市の景観重要建造物に指定)。その後宿場は大正4年(1915)に再び大火に見舞われたがこの清水家は類焼を免れ今にいたっている。中は島崎藤村が執筆したと伝わる二階の和室や藤村ゆかりの品々が展示されている。馬籠宿西の玄関口にある石碑「是より北 木曽路」は藤村の筆による。その原板がここ清水屋に保存されている。
どうして最初に清水屋か。2月24日に来たとき女将さんのお名前を聞くのを忘れていたからである。わざわざ聞かなくてもと思うが、記録の中で実在性が明確になる。高齢の女性の方がいた、と書くか○○さんと正確に書くのとでは記憶の固着性が高まる。聞くことによって手紙を出すこともできるしひょっとすると今後も消息が知れるかもしれない。
「こんにちは、今年の2月に伺った京都の者ですけれど」などと声を発すると出てこられた。玄関口は土産物の手芸品が売られている。
藪から棒とはこのことだ。失礼とは思いつつ恐縮して待っていた。さっさと歩く姿は年齢を感じさせない。80いくつだと言っておられた(84歳だったと思う)。
「はい、はい」と頷いておられたけど、「今年2月に京都から? 何言ってんの?」と感じられたに違いない。
「そのとき、お名前をお聞きするのを忘れましてね、それから気になって気になってもう一度ここへ来る機会があったものですから、今回はお聞かせ願ってとこの集落に着くなりやってきたんですよ。お変わらずにいられて嬉しかったです」などと前口上を述べた(なんと不躾なことよ)。
「ああ、そうですか、それなら、私、富子といいます」
「『鍋蓋』に『一』書いて『口』書いて『田』を書いて「富子」といいます」
すらすらとおっしゃった。ほとんど早口言葉である。よほど言い慣れたものであるに違いない。
「私、本当は松本の出なんですよ。それがいつしか馬籠の土地言葉を話すようになってしまいました」
話す単語やイントネーションに訛りなど何も混じっていないが。
何か気にしているものがあるのかも知れない。なんだろう。
「私も一人娘、結婚した主人も一人っ子だったもんですから、主人が亡くなってしまってこの店を守るものは私しかいなくなりました。神奈川県の川崎に娘がいます。孫がこの町のバス停の近くで暮らしています。ゆくゆくはどちらかがこの家を引き継いでくれたらいいですけれど。それまでがんばります」
「私、京都から来た、中川といいます。申し遅れました」
「京都から? そうなんですか。私、妙心寺へたまに行くんですよ」
妙心寺とは京都の花園の46もの塔頭が立ち並ぶ臨済宗の巨刹である。
「家が檀家でございましてね。行くことがあるんです」
前に松本の学校の先生の令嬢だったと言っておられたような記憶がある。どんな名家か由緒ある家の出なのか、わからない。馬籠の田舎に嫁いで来たことに何か気に病んでいるか、気にそぐわないものがあったのか、やけに松本を強調する。
「このような古い屋敷をお一人で守ってこられて大変ですね」と尋ねてみたくなった。「大変ですよ」と彼女は言うだろう。それを彼女は子供や孫があとを継いでくれるまで頑張ると言っている。ただそれが本当に彼女がしたかった暮らしや人生なのだろうか。松本のことをあまりに言うのでふとそんなことを思った。
2月に来たとき、ここで暮らしていた藤村の息子の世話を原家の嫁として行ったことを話してくれた(四男・楠雄のこと)。楠雄が寝起きした通りに面した部屋も案内してもらった。
彼女はこの集落の島崎家が成したいくつかの史実の空気を吸った生き証人なのだが、この店の守役が彼女のしたかったことだったのだろうか? 松本から出なければならなかったことになにか納得できない昏さを彼女に感じたのは勘繰り過ぎだろうか。
店を辞し再び坂を登る。馬籠は坂の集落である。土産物、五平餅の看板が立ち並び人が列を作っている。食べ歩きの人の姿も目立つ。
上陣場にある見晴台に出た。
陣場とは豊臣秀吉が徳川家康と小牧長久手で戦ったとき、徳川方が馬籠宿に陣をしいたことからそう呼ばれた。その上部の見晴らしのよい場所を上陣場と呼ぶ。
恵那山が一望だ。台形の山が長い裾野を左右に広げ悠然と屹立している。空には数片の雲のかけらが浮かぶばかりだ。
足下は坂の集落の赤や黒の屋根の連なりが、黙って下っている。山また山の険峻な土地。集落はそうした山々の枝稜のまた枝の稜線上に張り付いている。よくもこんな坂道に宿場町を開き大名行列を迎えたものだ。そのことが奇跡的である。(続く 次回は妻籠)
中山道を歩く 木曽路へ(20200921)
1 自宅から中津川
9月21、22日に「中山道を歩く」を再開した。2月24日以来7か月振りである。今回は木曽路の馬籠から福島まで7宿50キロを2日間で歩く。京都三条から数えて34宿目(250キロ/526キロ)。中山道69宿のほぼ半分まで歩いたことになる。
朝5時に起きてコーヒーを飲み、バナナとにんにく一片で朝食を済ます。忘れ物(血圧の薬など)がないか点検し終わると早々に出発した。
6時過ぎだった。いつもよりザックが重く感じた。少し寝不足っぽいか。
ザックはNORTH FACEの45リットル登山用だ。空っぽだと1,5キロある。中に着替えのほかこのパソコンと一眼レフ、この二つで2,2キロ。1キロの水が入った水筒、本や地図、傘など諸々の備品の類。全部で6,5キロ。一泊小屋泊まりの登山なみの重量だ。
パソコンなんて置いていけばいい。そう思ったがメモを取ってもどうせパソコンに打ち込む。考えたりしたことを文章に起こすにしてもワードファイルにキーを叩く。サラリーマンをしながらものを書く、時間が惜しい。旅の間、往復の電車の時間がもったいないので重いが背負って歩くことにした。
なぜそんなことまでして歩くのか。もう歩き始めてしまったのだから仕方がない。富士山に登り始めせっかく7合目まで来たにもかかわらず、身体はどこもおかしくないくせに下山するのと同じだ。
登ると決めたから登る。歩くと決めたから歩く。
ただ歩くだけではつまらない。見たり考えたことを記録するということで付加価値が高まる。歩くという極めて原始的でシンプルで肉体的に何の鍛錬もいらないトライアルにフィロソフィカルな味付けをすることによって、もっとよい歩き方を模索しようと考えた。より疲れにくい歩き方、景観から学ぶべきもの、中山道という旧街道を歩くために準備すべきことなど、だ。そのために重いがパソコンとカメラを入れた。
10分あまりで駅についた。最寄りの近鉄丹波橋駅まで1キロ。スピードはいつも通りだ。僕は1キロを普通に歩いて概ね11分で歩く。右太ももに張り感。昨日までのランニングの疲れからだろう。6時21分の急行に乗る。6時半過ぎに京都駅。自由席券を買いホームに上ったらのぞみが入線してきた。38分発20号東京行き。予定通り。
快晴。のぞみは鴨川を越えた。比叡山が明るい。トンネルを抜けると山科、山のひだが濃い。次のトンネルを抜けると滋賀県入り。石山(源氏物語の里石山寺がある)の工場群の景色が見え、瀬田川はあっという間に飛んで消えた。琵琶湖は視界に映りさえしなかった。気がついたら野洲だった。右手に近江富士・三上山の三角錐の山容が見えた。左手の彼方に比良山の長大な稜線が青々として聳えていた。日本海から押し寄せる雲の帯を背負っている。しかし空は高くどこまでも明るい。
6時48分、近江八幡。琵琶湖畔に立つ八幡山(羽柴秀次の居城)が見えた。京都から歩いたら15時間ほどかかる距離を新幹線でわずか10分ほどだった。
田んぼはほとんど刈り取りを終え刈田の大地は中学生の坊主頭のように清々としていた。濃緑薄緑のパッチワークが東近江の平野に広がっている。
やがて彦根城の天守閣が浮かび上がった。すぐに視界は山肌に遮られた。佐和山である。石田三成が城主を務めた佐和山城があった。足下は中山道と国道8号線そして名神高速の3本の基幹交通網が並走している。フジテックのとんでもなく高いエレベーター研究塔が左手に迫り後ろに飛んで消えていった。
トンネルを抜ける。出ると背後に伊吹山の頂上付近が見えた。茶色にえぐられた襞をさらしている。関ヶ原は気づかないうちに通り過ぎ新幹線は南東に進路を傾け濃尾平野を突っ切ろうとしていた。石灰石採掘で中央部が無残にもえぐられた赤坂山が右から左に流れている。揖斐川を越えた。輪中の中に田んぼが青々と広がる。長良川、そして木曽川を越えると間もなく名古屋に到着した。
名古屋駅で住よしの生卵と牛肉入りきしめん(640円)を食べ、キヨスクで「天むす」を買って駅のホームで食べた。きしめんはもちもちつるつるで大好物のひとつ。トッピングの方は牛肉が関西風の甘辛ではなく、甘みが強すぎて味は今ひとつ。いつものようにかつお節だけがかかっている「かけ」にしておけばよかった。「天むす」は名古屋人のソウルフードらしい。おにぎりの具材に小海老の天ぷらが入っている。入っているのではなく三角おむすびが海老天を背負ってのりをおんぶ紐にして巻いている、そんなイメージ。味の方は海老天の塩味でまずまず。お腹は膨れた。食べ過ぎ感があった。しかしこれが後で効いてくるとは思わなかった。
さて今回旅の起点にするのは岐阜県中津川。長野県はもう目と鼻の先。木曽路の宿場の旅館に泊まってもよかったがコロナが心配だった。で、安くてちゃんとした個室とシャワーがあり他人との接触機会が少ないという条件に合うとすると、ビジネスホテルしかないと考えた結果だ。条件に合うホテルは中津川にしかなかった。
中津川には9時6分の着の予定だったJR中央線が3分遅れて到着。危うく9時10分発の馬籠行きのバスに乗りそこねてしまうところだった。駅に到着してバス停まで走ったがすでに出発したあと。付近にいた別のバスの運転手が「信号の上の道を通過するはずだ」と指差して教えてくれた。諦めて次のバス(45分あと)にしようかと迷ったが、ともかく行ってみることにした。信号の向こうにトンネルがあり、トンネルの上を県道が走っている。サックを背負って100メートル走り、ビルの4階分の階段を駆け上がって県道に立った。バス停をさがしてキョロキョロしていると緑色の「馬籠」と表示を出すバスが現れた。バス停までまた走りなんとか間に合った。このバスに乗れたこともあとで効いてくるのだった。(続く)
中山道をゆく④ 大津から草津へ
草津へ
瀬田の唐橋を渡るとまもなくして三叉路の前に建部大社の大鳥居が見えてきた。神社にも序列がある。このお社は近江国では筆頭格の近江国一宮に列せられている。京都でいえば平安京以前に創建されたユネスコ文化遺産の上賀茂・下鴨神社と格では同じだ。
日本各地を転戦したと伝わる日本武尊を祭神とし、起源は古事記・日本書紀の神話時代に遡る。ここに社が置かれたのは675年で、近江国府の所在地であった瀬田の地に天武天皇が配祀したのが始まりだという。
天武天皇はその3年前に起こった壬申の乱の勝者だ。天智天皇が崩御した672年、天皇の弟・大海人皇子は挙兵し天皇の息子・大友皇子に挑んだ。クーデターである。
乱の戦場は関ケ原まで及ぶなど各地で激戦が続き673年、瀬田で大友皇子軍が大敗し決着した。確か大友皇子の父・天智天皇は中大兄皇子として奈良にあったとき、中臣鎌足と結託して当時政治を実効支配していた蘇我入鹿を襲って天皇親政の土台を築こうとした。その乙巳(いっし)の変と呼ばれた大化改新もクーデターであった。親がクーデターで奪った権力をその息子もクーデターによって奪われたのだ。天武天皇が建部大社を建立した意図は? 自己の勝利を勝ち取った場所で印象づけ、世が変わることを宣言する狙いがあったのではないかと想像している。
瀬田の唐橋からひたすら歩いた。初日は最低でも草津、できれば守山の宿まで行きたかった。
何も決まりごとのある旅ではない。気ままに、ただ、どの宿場からからどこまでだけを軽く決め、ザックを背負いカメラ片手の旅を続ける、そうしようと思っている。
でも今日は初日だ。ここでへこたれてしまうと、後々、距離が伸びないかも知れないし、もとより意志薄弱の私だ、途中で投げ出してしまうかもしれない。だから歩けるだけ歩いてやれという気負いがあった。ものの本を読むと「京立ち守山泊まり」といわれ、東下りの中山道をゆく旅人は、京都三条を立って守山までの35キロほどを歩くのが江戸時代、庶民の旅としては一般的だったらしい。それならと、自分も守山にこだわっていた。
さて歩かねばならない。
道は生活道路の間をうねうねと続く。JR瀬田駅に近い龍谷大学瀬田キャンパスに続く学園通り沿いに一里塚跡碑を見つけた。お恥ずかしながら一里塚と名のついた石碑を見るのは初めてである。江戸時代に入って宿場や人足馬借の制がしかれ人の往来や物資流通に里程の明示が必要となった。そのため、目印にと一里(約4キロ)ごとに塚が築かれ崩れないよう榎など丈夫な木が植えられた。
歩いてみてわかったことだが、中山道沿いには一里塚がその規模を縮小しながらも姿を残しているものや、もとあった場所にその跡碑が設けられている場所などがふんだんに残っている。
長く歩いて一里塚碑などを見つけると4キロ歩いたのだと旅情がわく。草津宿手前の野路にも一里塚碑が残っていた。この野路町に1994年開業の「JR南草津駅」がある。この駅の誕生まで20年近くかかっている。1970年代の終わりごろから地元経済界の中で起こった草津駅と瀬田駅の間に新駅を設ける構想が、1980年代半ばの草津市南部新都心構想とドッキングし、1990年の立命館大学のキャンパス移転の具体化と相まって進展、開業した。「野路駅」も駅名候補に上がっていたが最終的に「南草津駅」に決まった。
南草津駅の開業と前後するように草津市の都市化が一挙に進んだ。滋賀県で一番進んでいる地域ではないだろうか。大学のキャンパスが開かれ一人暮らしする学生が増えた。周辺には大手企業が工場や研究所を開き敷地を広げの納品や出荷の大型トラックの出入りも頻繁だ。JR新快速電車が京都大阪までの通勤の利便性を高めファミリー層の人口が激増した。
こうした産業経済の地域的発展は草津という土地がもとから流通の要衝だったということと無関係ではあるまい。
草津は日本の国土の中で唯一の中山道と東海道の分岐点である。江戸表と国もとを往復する参勤交代でもっとも混み合う場所であったろうし、人馬が運んできた荷駄の分量も大きなものであっただろう。土地がその歴史の中で醸成してきたポテンシャルが高まり今の栄え方があるのだと思う。
中山道(東海道)と矢橋街道との分岐点のあたりに瓢泉堂という瓢箪屋がある。矢橋街道は琵琶湖畔の矢橋にひらいた湊につながる街道である。瓢泉堂の付近にはむかし6、7軒の瓢箪を売る店があったが今はこの店一軒きりになった。店の軒先をかすめるように享保15年(1730)10月の建立とある高さ1.5メートルほどの道標が立っている。「右やばせ道 ここより廿五丁 大津へ舟わたし」と刻まれている。
有名な室町時代の連歌師・宗長の歌「もののふの矢橋の舟は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」に出てくる矢橋の湊である。ここと大津の石場あたりにあった大津湊の間を舟が結んでいた。比叡や比良からの突風に難破する舟も少なくなかった。安全にゆくのなら遠回りでも瀬田の唐橋を渡ったほうが無難だという「急がば回れ」の語源ともなった。
ようやく草津宿に入った。15時前である。往時は本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70余軒の大きな宿場町であった。さすがに東海道と中山道が交わっていた町である。
戦国初期の武将で江戸城を築いた太田道灌にゆかりある太田酒蔵に立ち寄って吟醸酒を一本買い求めた。本陣はその酒蔵の斜め向かいにある。数多いかつての宿場町の中で往時の姿を完全な形でとどめている本陣は少ない。大福帳(宿帳)には最後の将軍徳川慶喜や十四代将軍徳川家茂に嫁いだ皇女和宮や浅野匠頭、吉良上野介、新選組などといった人物の名前も数多く見られ、宿で休憩し、または宿泊し、そしてまた街道を往還した当時、名のない庶民が玄関で草鞋の紐を解く姿まで見えてきそうな証拠である。
草津追分は本陣からすぐそこである。草津川の下をくぐるトンネルの手前に立派な石造の道標があり、日野の豪商だった中井家が寄進したものといわれ「右東海道いせみち、左中仙道美のぢ」と刻まれている。追分、まさしくここが二つの二大幹線道が交わっていた地点であり、高札場が置かれた草津宿東の出入り口であった。
道標の上に木製の火袋が乗っている。あそこに灯が入っていた時代があったのだ。それはいつまで火が灯されていたのだろう。菜種油だったがロウソクだったかわからないが、今私たちが見ている灯火に比べれば遥かに乏しい明かりが街道を照らしていた。日中は人や荷駄でごったがえしていたであろう。夜は人が寝静まってしまうと障子から漏れ落ちる僅かな行灯の明かりとこの常夜灯の頼りない明かりが、昔は人々を勇気づけたり安心させたりする灯だったのだ。
中山道をゆく 大津市内③
瀬田の唐橋へは中山道(東海道)もいったんJR石山駅までからだ。
石山と言えば真言宗の大本山石山寺がある。その寺名の通り境内に硅灰石の巨岩が覆いかぶさってくるように屹立し、堂宇も岩の上にある。
山や樹木と同様、岩は古代から自然に対する畏怖の念を呼び起こし、人々は社を建てて祈りを捧げた。磐座信仰の起こりである。
石山寺は磐座をもって真言の祈りの場とした巨刹である。747年に聖武天皇の勅願によって建てられた。紫香楽宮を設けた聖武天皇だ。聖武は僧・良弁に対し東大寺の大仏建立に不足している金が多量に産出されるよう祈れと命じ、良弁は祈願の場をここ石山に定めた。桓武天皇が奈良から京都盆地の山城に都を移して平安京としたころ、空海が司る真言密教が勢力を強め石山も真言の教えの道場となって今に続く。
瀬田の唐橋に着いたのは昼の12時半ごろだった。京都伏見の家を朝5時半に出て6時間でざっと24キロ歩いたことになる。昼食に30分休息をとったのと、義仲寺で40分ほど滞在したのを差し引きするとざっと時速5キロ弱というスピード。さすがにちょっとくたびれた。昼食に近江牛でも、と思い名店「松喜屋」の前も通ったがはやはり相当値が張りそうで腰が引けた。結局石山駅前のマクドナルドでビッグマックとコーラで済ませた(せっかくの旅なのに貧乏性が出た)。
瀬田の唐橋が話題になる機会は多くない。毎日放送と日本陸上競技連盟が共催する毎年春の琵琶湖毎日マラソンの中継で、黄色の欄干が特長の長い橋を見るくらいだろう。
橋は川に架かっているというが川はまだ日本一の湖・琵琶湖の南にあって、ちょうど和楽器琵琶の柄のあたりの、一番すぼまった部分にあたる。川はそのまま南下し宇治田原の渓谷を駆け下り、宇治市街に入る手前の宇治川ダムを経て淀川に合流する。
「瀬田の唐橋を制するは天下を制する」と書いたが古くは壬申の乱、承久の乱など幾多の戦乱の舞台となってそのたびに焼け落ちるなどした。本能寺の変のとき、変事を知った安土の織田方は明智軍の到来を予期して橋を落とした。明智の兵は仮橋の架設に3日を要したという。
昔この橋に大蛇がいて通行人を脅かした。勇猛できく俵藤太は臆することなく蛇を踏みつけて橋を渡った。大蛇は仙人に姿を変え、三上山に棲む大百足が周辺の人々を苦しめている、助けてほしいと懇願した。藤太は湖東にそびえる三上山に赴き自慢の弓矢で大百足の目を射ると大百足はついにたおれた。
これは10世紀の終わりに武家の台頭の先駆として関東を平定した平将門を討った藤原秀郷の話をモデルにしているらしい。秀郷が将門を討つことができたのは放った矢が将門の目を射たからだと言われている。秀郷の弓矢の腕前がいつしか山そのものが御神体となっている三上山の信仰と結びついたというところに近江の伝説の面白さがある。
俵藤太の話は後談があって、藤太の百足退治が成功すると仙人の招待で瀬田川深くの竜宮で歓待され沢山の米俵を土産にもらって帰ったという逸話だ。豊富にとれるコメのその豊穣な近江という土地柄を伝える昔話である。
中山道をゆく 大津市内を歩く②
膳所は長く瀬田川に面した城下町であった。白壁、格子窓や長塀の屋敷が立ち並ぶ。江戸期の空気が佇まいのふとした陰に落ちている。曲がりくねった角の多い街道が湖に沿って続いている。ところどころに小さな石碑が家々の軒下に配され、例えば「膳所城北総門跡」などと刻まれている。城域は意外と広い。
城は湖にせり出した水城だった。二の丸、北の丸、天守閣をもった本丸が琵琶湖に突出していた。ために石垣も城壁も波の侵食を受け、絶え間なく修復に手数と金がかかって藩の財政を圧迫した。
膳所城は関ケ原の戦いのあと1601年に徳川家康が江戸城、大坂城、名古屋城などに先んじて天下普請の城の第一号として建てさせた城である。この地を選んだのは三キロほど南の瀬田の唐橋が古来より「瀬田の唐橋を制するものは天下を制する」といわれるほど軍事・交通の要衝だったことによるらしい。以後譜代大名の居城となり戸田家、本田家などが主となり明治維新まで続いた。
城は数奇な歴史を背負っている。
木材や石垣など建材の多くは廃城とされた大津城から移築されたものである。今の浜大津にあった大津城は豊臣秀吉が北東の草津と結ぶ湖上交通を掌握するために1586年に建てさせた水城で、天守は湖岸に面し城は港の機能も兼ね備えていた。1600年、城主は京極高次であった。関ヶ原の戦いの前哨戦で城は激しい攻城戦の舞台となった。京極は東軍に属し兵は3千と少なかったが、京都の伏見城を落として攻め上ってきた西軍1万5千を幾度となく押し返し、9月14日までの約1週間この大軍を釘付けにして15日の関ケ原の本戦着陣を遅らせた。
坂本城は大津城の5キロほど西にあった。織田信長が比叡山焼き討ちの翌1571年にその山麓に明智光秀に建てさせた。目的は言うまでもなく延暦寺の押さえである。また琵琶湖西岸の今の161号線である西近江路や裏の谷筋を南北に縦断する若狭街道(鯖街道)を監視する戦略的拠点の意味合いもあった。壮麗な城で織田信長の安土城に並ぶほどであったといわれる。
だがこの城も毀(こぼ)たれる。1582年の本能寺の変、そして山崎の合戦を経て城主・光秀が京都小栗栖の山中で斃れると、天下を掌握した秀吉は大津に城を建て坂本城を廃城とした。
織田信長が明智光秀に命じて建てさせた坂本城は豊臣秀吉によって廃され、秀吉が建てさせた大津城は徳川家康によって壊され、膳所城だけが明治維新まで残った。これら3つの琵琶湖岸の城は直線で10キロほどの線上にあり、坂本から膳所までの端から端まで車で30分ほどだ。
そんな近い距離にある3つの城の変遷に、戦国から安土桃山そして江戸時代にかけての3人の英傑の栄枯盛衰をみるのは奇跡に近い。
中山道をゆく 初日 大津市内を歩く①
逢坂山から161号線を湖にむかって坂をまっすぐ駆け下る。間もなくして札の辻に着く。札の辻は幕府の法令を記した高札が掲げられた場所だ。旅人たちに馬や人足を提供した人馬会所もこのあたりにあった。道は左をとれば北陸へ向かう湖西への道、右にゆくと中山道に分かれる(草津までは東海道と同じ道)。交差点の角に大津市道路元標もある。大津の近代道路網はこの地点から広がっていったということなのだろう。
現代の中山道・東海道といえば国道一号線だ。京大阪と東京を結ぶ大動脈は南の音羽山沿いを走っている。大津から草津までの交通量はハンパない。並ぶようにしてJR琵琶湖線が走る。
旧街道沿いは京風の町家が多く残っている。深庇、虫籠窓、連子格子、商売しないときは上げておくばったり床几、庇の上の魔除けの瓦人形の鍾馗さまがみられる。
大津と京都洛中は十キロも離れていない。家屋やその建築志向そして技術が京都と文化圏を同じくしていたということなのだろう。
ただ天皇が住んだ都の形成という面で行くと京都より近江の方が早かった。人の暮らしを包む質と趣を括って文化と呼んで間違っているとは言えないだろう。大化の改新を成し遂げた天智天皇は札の辻からそう遠くない北西の地に大津京を開いた。聖武天皇は甲賀の里に近い紫香楽(信楽)に離宮を置き平城京と往復していた。古代から中世にかけて近江から奈良、そして京都のトライアングルで地域文化が醸成されていたといえるだろう。
その痕跡をトレースすることは時代が古すぎて難しいが、考え方としては、大津の町家に関わる質や趣が洛中の京都から一方通行でもたらされたというのは歴史の変遷全体からすれば偏った見方だ。大津京や紫香楽宮など律令時代からくつくつと発酵してきた和の文化が地域全体を覆ってきたのだと思っている。
吾妻川があった。滋賀県庁を山手に見、町家の風情も途絶えたかに見え、距離を稼ごうとスピードを上げたところに橋柱にそう書かれてあった。橋にそう書かれてなければ気づかない数歩で渡りきれる細い流れだ。古来より「関の小川」で呼ばれ和歌にも詠まれた。逢坂の峠あたりに源を発し市内を曲折しながら琵琶湖に注いでいる。
音羽山紅葉ちるらし相坂の関の小川に錦をりかく
金葉和歌集で源俊頼は逢坂の峠界隈の錦繍をそう表現した。琵琶湖畔の紅葉は比叡山の麓日吉神社のあたりが美しかった記憶がある。吾妻川のまわりは開発が進んで山麓の上のほうまで住宅が広がっており往時の紅葉を描く手掛かりを得るのは難しい。
大津での目当ては義仲寺に立ち寄ることだった。私が境内に入った昼下がり、訪れる人はまばらだった。この近辺は粟津ケ原がと呼ばれ琵琶湖に面し近江八景のひとつ「粟津の青嵐」として知られた景勝地であった。粟津(あわず)ということから「逢わず」という掛詞で和歌にも詠まれた。
朝日将軍木曽義仲の御墓所である。一一八〇年木曽義仲は平氏討伐の挙兵をし八三年に北陸路の倶利伽羅峠で平維盛の大軍を破って入洛したものの皇位継承政に介入し後白河法皇と不仲になった。源頼朝が放った範頼、義経の軍勢と戦ってこの粟津の地で敗れた。
松尾芭蕉も死んだ後この寺で埋葬されている。芭蕉は度々近江を訪れこの地を題材に数多くの句を詠んだ。一六九四年大阪の今の御堂筋の旅窓で亡くなったが「骸(から)は木曽塚に送るべし」との遺言によって遺骸が運ばれた。
なぜ義仲寺だったのかはよくわからない。
盛りをすぎた芭蕉の木が人のげんこつぐらいの大きさの苞(ほう)長く突き出していた。芭蕉はバナナと同種の植物である。松尾芭蕉の名のゆわれは江戸・深川に草庵を結んだとき植えた芭蕉が大きく生長して話題になったからだと言われている。(つづく)
中山道をゆく 初日 逢坂の関
2019年5月2日 中山道初日
午前5時半に京都伏見の自宅を出て歩くこと4時間、9時半頃逢坂山の峠に立った。逢坂山は京都府と滋賀県の境にある小山である。ここには京都・山城国と滋賀・近江国をわかつ関所が設けられていた。「逢坂の関」である。
車が忙しく行き交う峠道で、音曲の神様とされる蟬丸が祀られる蟬丸神社がある。この盲目だとされる法師・蟬丸のことを知ったのは和歌だった。子供のとき正月に打ち興じた百人一首で「これやこのゆくもかえるもわかれては・・・」と詠み上げられると、頭巾を被った黄土色の法衣を着た坊主の絵だけはよく覚えていて、その上の句の出だしだけでスパッとカルタを奪取していたものだった。
江戸期に完成した中山道六十九次。全長534キロ。東海道と並ぶ五街道のひとつだ。京都三条大橋から草津宿まで東海道と道を同じくしている。大津宿はこの逢坂の関から十分足らずで順番から言うと京都の次の宿場だ。
話は蟬丸のことではない。この神社がある峠からの眺めである。琵琶湖、淡海の見える景色である。滋賀県ではこの日本一大きい湖のことを「淡海」、「たんかい」または「おうみ」また古くは「あわうみ」とも呼んだ。
「たんかい」ではそのまますぎて情緒もへったくれもないが「あわうみ」と呼べば、どこかふわふわと、それこそ比良山や伊吹山、遥か鈴鹿の山系など四方の山々が春霞に煙る中に、水面が淡く青に染まる湖の光景が目の中に浮かび上がりそうなものである。
いうまでもないが滋賀県はその土地の六分の一をこの巨大な湖が占める。滋賀県のことを近江と呼ぶのは都からの遠近だ。琵琶湖が「近淡海(ちかつあわうみ)」とされたのに対し遠い駿河の浜名湖は「遠淡海(とおつあわうみ)」とされた。
やがて「近淡海」は音が縮まって「近江」となり一方は「遠江」となった。琵琶湖の名は江戸期に測量技術が発展し形状が和楽器の琵琶に似ていることから命名されたのだそうだ。
ほんの十年くらい前までは逢坂山の峠に立てばこの広大な「あわうみ」がかなりの奥行きをもってどーんと眼前に広がっているのが見えた。
京都の三条方面から混み合う国道一号線を車でやっとのことで抜けて逢坂山に差し掛かりさて滋賀県だというときに、峠から日本一の湖の光景に出迎えられることはなかなかの趣向。そんじょそこらにない自然の仕掛けである。しかしそれも近年ではビルが高層化しその雄大な景観を得ることが難しくなってしまった。立つ位置をずらせばやっとのことで高いビルの間に挟まった湖が、縦に細く切り取られ短冊状になって見えるのが関の山である。
JR大津駅からはもっとましな景色が得られる。駅前は片側二車線の大通りである。障害物は限定的で広々とした空と大地のはざまに淡海があわあわと伸びている様が実によく見える。駅を降り立ったとき、旅人はどんな景色かと期待するものである。JR大津駅の場合、晴れていさえすれば湖の雄大が目に前に広がっていることが期待できる。